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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

ウィリアム・ルービンのクリフォードへの反論に「ポリティカルコレクトネスだ!」って言ってて、うわぁってなったな(90年代の日本語版のみに掲載されているらしい)

わりとちゃんとした記事で良かった。

https://cinemandrake.com/what-political-correctness

"No Ghost Just a Shell" を「機動隊なし、攻殻だけ」って訳してるの意図は理解するけど笑っちゃった。「機動隊」はどこから来たんだ。

Art since 1900 の1992年、批判的人類学を取り入れたアーティストが、美術館からの依頼で仕事をして、それが美術館・美術制度の批判的な内容であるとき、「ミュージアムそのものが内部的に分析を企ててもよかったはずなのに、そうではなく外部からこの種の批判を輸入して済ませているかのように見えたりもする」と書いている(ハル・フォスター)。

これめちゃくちゃわかるというか、前の西洋美術館の「ここは未来のアーティストたちが...」展で思ったことそのもので、「そんな自問自答は自分でやってそのプロセスをキュレーションしろよ」とおもった。それをせずに、アートフォームにおいては任意の批判が可能であるから例の抗議活動が成立した、というのは美術館がまさに自問自答などしていないことの証左でしかなく、責任そのものをアウトソースする行為だと思った。つまり「批判」の責任をとらなければならないのはアーティストになっていて、美術館による美術館の自己批判ではない。かなり悪質だとおもった次第である。

昨日まで読んでたはずの本がなくなる問題、誰か解決してほしい

渡邉恒雄が反軍国少年で元共産党員、いまでも首相による靖国神社参拝に強く反対しているというのをまったく知らなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E9%82%89%E6%81%92%E9%9B%84

やってたの全然気付いてなかった
https://scool.jp/event/20240809/

温マ流作詞術
①曲のタイトルを決めます。
②タイトルを連呼します。これがサビになります。
③タイトルの説明をしましょう。(例:トマト、おいしい。トマト、赤くて丸い)これがAメロおよびBメロです。
④これらを組み合わせましょう。曲の完成です。

スレッズは最初に客を絞らなかったからなぁ

Threads、持論SNSから素人が質問して半可通(もしくは質問に答えるのがクソほど不得意な専門家)が答えるSNSになってしまった。一言でいえたらいいが。

「観せ物」とか「図象」とか、ところどころ「?」となる日本語が埋めこまれている

「メイキング」で「製図家」って訳されてるのぜったい「素描家」のことだとおもうんだけど...

ドミニク・チェンの typetrace とか
https://typetrace.jp

MIDI鍵盤を打った時のベロシティ値に文字を対応させるタイピングシステムを作れば文字を指で感じられるようになる。。?

自分の行為からあるアウトプットにいたる変換が、アナログかデジタルかというのはあるけど、それってほんとうにそんな根底的な差異をつくりだすのか?ツールによる制約や拡張性の差はある(カットアンドペーストとかはデジタルのほうがはるかにやりやすいのは間違いない)けど。ツールのデジタル化によって、対象と身体との連続性の感覚は個人的な開きがある問題だとおもう。
落合はバットと手の感覚が狂うからグローブを嵌めなかったらしいけど、大谷はグローブ嵌めてる。アナログ領域でも道具と身体の直接的関係性のありかたにはかなり個人差がある。

これ、タイピストを「感覚を持ってない」っていうならピアニストも「感覚を持ってない」っていうべきなんじゃないだろうか。

かなり恣意的な区分に見えますよね

「感覚」って身体的なものだと捉えがちな気がするし、実際インゴルドはそう言っちゃっているんだけど、ものづくりにおける「感覚」って、手許でコントロールできるという確信と相関するものなんじゃないかな。制作プロセスに自己が疎外されていると、それを使うときには「感覚」があまり生じない、とか。自分用に作っているブログ作成ツールも、「書きごこち」みたいな感覚は自分なりに気にする。それって表面的な身体動作やインタラクションに現れてこない。

インゴルドもずいぶんコンピュータテクノロジーに敵対的なこと言うけど、「ブログ作成用のソフトウェアを自作する」とかもけっこう手仕事感あるんだよなぁ。

問われるべきは、手や指先が「感じる」かどうかである。チェリストが指で弦を押さえるときに、ピアニストが指で鍵盤を押さえて叩くときに、それを感じずにはいられない。このとき、技術的に効果的な身体動作とそれにともなう音は、途切れることなく連続している。それではフォークリフトの運転者は、持ちあげた荷の重みを感じているのだろうか。(略)タイピストは、タイプしている文字の形の違いを感じているのか。いずれも答えがノーならば、指先の触覚は、それがいかに繊細で的確であろうと感覚をもっていない。指先は、ボタンや鍵盤といった「インターフェース」をとおして、機械と相互作用する。だが、指先の動作は、物質の動きやそれにともなって生じる痕跡と呼応(コレスポンド)していない。指は「突き棒」でしかなく、指がインターフェースに接触するのは「的中すること」である。目と目を合わせるアイコンタクトのように、的中することがつくる関係性は、触覚的とういより視覚的であり、感覚的というより合理的である。

『メイキング』pp.257-258 ティム・インゴルド

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