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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

ハイデッガー全集54にあるらしい

なんかハイデガーが、「タイプライターは、手の、つまり語の本質的領域から、文字を奪う」と言っているらしく、手書きこそ本来的な「文字を書く」という行為だみたいなこと言っているらしいのだけど、どれで言っているんだ、かなり気になる

(Heidegger 1992)とか書かれるとどれを指すのかぜんぜんわからない

https://histanthro.org/clio/the-relation-of-darwin-to-anthropology/ フランツ・ボアズはダーウィンの単線的進化論にかなり疑問を持っていたと書いてある。文化相対主義を主張していたのだからそれはそうかも。 (一部機械翻訳で抜粋)

彼はダーウィンの著作の中に同意できる点を多く見つけたが、ボアスが証明されていない、あるいは疑わしいと考えた考えもあった。特に、ある民族や言語は他の民族よりも発達しておらず、すべての民族や思考体系がその上に配置されるかもしれない人類進化の単一のラインが存在するというダーウィンの考えである。

いま調べたら、フランツ・ボアズの "The Mind of Primitive Man" という本が1911年、1920年代に primitive art というのを書いているらしい。
ボアズをぜんぜん読んでいないけど、初期の論考(1909)に The relation of Darwin to anthropology というのがあり、ちょっと興味ひく。

「プリミティヴ(フ)」の美術史の用法はルービンと大久保に詳述されていて、そもそも19c半ばには14〜15cのイタリア・フランドルの巨匠を指していたし、そこから対象が広がってビザンチンだのゴシックだのがあり、非西洋も「プリミティフ」なものになった。要するに西洋における自己の起源を「プリミティフ」と呼んでいたわけで、それが非西洋に対象を広げていくという流れとして記述している。大久保は、20世紀初頭にアール・ネーグルが「プリミティフ」になるのは、「他者」として表象されていたアフリカ彫刻が「自己」の起源として再配置されることによると論じている。

こういった歴史表象の再配置は人類学から借りられたものなはずで、19cなかばくらいまではたぶん人類の起源にあたる時代はアダムとイヴのような白人っぽいのが楽園にいるイメージだったんだとおもうが、それがアフリカ起源説みたいな人類の単線史観が発達する。だから黒人が他者から自己(の起源)になるという流れだとおもうのだが(わりと適当書いた)。これ美術史側からはだいたい把握したけど、人類学とか他で「プリミティブ」という語の用法がいかに変化してきたか書いてあるやつを読みたい。

artscape のプリミティヴィズムの項目、ルービンも大久保恭子も読まずに書いたでしょってくらい適当な内容で、なかなか酷い。
https://artscape.jp/artword/6717/
「プリミティヴ」という語に対する通俗的な差別意識の反映で記事書いているだけで、大学生のレポートより酷い。
だいたいゴッホがアフリカやアメリカの「原始的な」絵画・彫刻に影響を受けたなんて、ミスなんだろうけど、単純に事実に反する。

ルービンの言う「親縁性 affinity」ってゲーテの「親和力」(英題 Elective Affinity)が元か。いっそうややこしい。

とはいえ、ルービンの分析のおおくは、理論的な修正さえ施してしまえば流用できてしまったりするんだよなぁ。

ウィリアム・ルービン、こういう傲慢な書き方が典型的に「救済」的な語りなんだよな。サイードの言うオリエンタリズムそのものというか。これでクリフォードにdisられた理由がわからない、不当だっていうのだから鈍感すぎる。

古い時代の作品には秀作もあるが、そうした作品が保存される過程で働いた淘汰の規準は決して美的なものではない。(…)今日伝えられている作品というものは、概ね(もちろんすべてとは言えない)芸術的価値に関する継続した集合的判断に支えられて保存されてきたものである。そこでは、集団の合意というものがふるいの役割を果してきたと考えられる。そのふるい分けが進行するためには、その社会に才能に恵まれた芸術家が必要とされたのはもちろんであるが、それ以外に批評の伝統に裏打ちされた「美術」という概念も必要になる。そして、この批評の伝統のために今度は文字が必要となる。アフリカやその他の文字をもたない「部族社会」における彫刻をめぐる言説は、この最後の点で、ここでいう批評と呼べるものにはなっていない。

オリエンタリズム→ジャポニズム→プリミティヴィズムという一連の流れがあると考えれば、西洋にとっての他者としてのオリエント(中近東)から、次第に自身の新しい祖先として我有化していく、みたいなのがどうみてもある
この美術史上の流行の変遷、政治的な関係に直訳できそうな。オリエントは19cにおける敵、プリミティヴィズムは植民地、で、日本はたぶんムスメ(ピエール・ロチ)なんだよな。

クリフォードがMoMAの展示について批判する「救済という語り」は、モダニズム芸術家が「部族のモノの芸術性を発見する」ことによって「芸術」の領域まで引きあげることを指すけど、こういう「語り」は柳宗悦に典型的にあらわれている

近代芸術は ex-centric であるために非西洋のモノをリソースとして流用しているのだが、そもそも帝国主義的な植民地主義の拡大もまた ex-centric を内包しているという。こういう二重性は柳宗悦への植民地主義批判にも通じるところがある。

芸術上のモダニズムが脱西洋という流れを内包しているのに、それを「モダニズム」として西洋近代に位置付ける語りがそもそも逆説的なんだよなぁ...

これ気になるけど学芸員だれだ
https://haniwadogu-kindai.jp

クリフォードはルービンのこの反論を読んだのだろうか

ルービンによるジェームズ・クリフォードへの反論を読んだけど(これは「プリミティヴィズム」展図録の日本語版にしかないようである)、かなり難しい問題だなこれ。芸術における普遍主義が西洋中心主義とおなじなのかどうかは、議論の一つの中心だけど、ルービンはこの回答は開きなおることできれいに避けているんだよな。

芸術から芸術がどのように生み出されるかがわからないと、下手に appropriation という言葉を使ってしまうと危険が危ない

美術史というものが、起源を定めてそこからの発展の物語を描きだすのもバカバカしいかもしれない。

これ、芸術家たちがそもそも美術史をかなり意識したうえで、その物語の書き換えを狙った行為でもあり(たえず発生しつづけるルネサンス)、アヴァンギャルドっぽいとも言えるしバカバカしいとも言える。じっさい、セザンヌが自分のことを「新たなる芸術にとってのプリミティヴなる者」と言ったのもかなりバカバカしい響きがある。

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