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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

ブルジョワ展、あの規模は国内では今後なさそうな気がする

ブルジョワ展、作品数めっちゃ多い。これだけまとまって見れるのは日本だと得難いのでは

ユク・ホイがエスコバル引いてたんだっけ?忘れてしまったが、方向性がやっぱり似ている

アートやデザインのスタジオほど白人によって強固に占拠された社会空間は他にない。彼女によれば、デザインの領土における白人による無思慮な占拠は、多くの人にとって良いデザインを意味するバウハウス由来の美学に埋め込まれた、人種差別や性差別のイデオロギーを暴くことができない。デザインの政治を急進化するには、これら諸問題をオープンに扱い、デザインを不平等、人種差別、性差別、植民地主義との関係に正対させる必要がある。 (P.100)

エーン、ニルソン、トップガードは、「ユーザー中心設計によるイノベーションへの要請は根強く、イノベーションは民主化されつつあるとする信念さえある」と述べる。「しかし、それは一見独創的に見えるだろうが、新たなパラダイムは驚くほど伝統的で経営的」であり、市場と利益を志向していると主張する。三者にとって、イノベーションの異なる概念を醸成するためには、周縁化された市民との地道で献身的な活動、メイカースペースやファブラボ、フレンドリーハッキングなどのデザイン手法を取入れながら、同時に専門家の階級的基盤を暴露し、虐げられた集団の知識や経験を正統なものとして位置づける必要がある。
『多元世界に向けたデザイン』 pp.99-100

エスコバル、さすがにかなり広く調査しているなぁ。コンピュータ関連のデザインと認知科学の文脈をかなり掘って、他領域と横断的に把握するのは力技だけどなかなか見ないレベルの仕事だ。

どういう文脈からこういった展示企画をしようということになるかは理解できるけど、この楽天主義的なイメージがひっかかってしまう
森美の「私たちのエコロジー」と同じ傾向というか、批判的な文脈は完全に抑えこまれているんじゃないかというのが懸念か

21世紀美術館のこの展示、見にいったほうがいいのか気になっている
https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=65&d=1821

マルコム・マカロックは、インタラクションデザインの実践は、インターフェイス・デザイン、インタラクション・デザイン、エクスペリエンス・デザインを節合したものと考える。現象学的な概念に基づき彼は、この接合を文脈から切り離された価値中立的なものではなく、身体化され、場所に根ざし、コンヴィヴィアルでケアを助長する状況に埋め込まれたテクノロジーと捉えている。この概念は、デジタル技術を人間と場所中心のデザインに再配置することで、文脈から切り離された速度、効率、モビリティ、自動化といったモダニティの傾向に対抗する。(…)すなわち、場所や共同体に根ざしながらも、埋め込まれたシステムを通じて人々がモバイル機器を介し世界を捉える方法を扱う、状況化されたデザイン実践である。
『多元世界に向けたデザイン』 p.82

僕の頃は、冷戦崩壊とか学校で習わなかったんですよね。

NADiff a/p/a/r/t 閉店、いろいろな思い出が蘇ってくるな……。あの建物はどうなるんだろう?
https://x.com/NADiff_apart/status/1879777440006017090

これも面白かったです。
https://digthetea.com/2023/03/tomoki-yamauchi/

おもしろかった

人はスマートシティにもパンジーを植えるのか?テクノロジーに飲み込まれた第三風景にも抗う「亜生態系」:連載「スマートシティとキノコとブッダ」ゲスト:山内朋樹
https://note.com/cityfungibuddha/n/nfb59b83f256f?sub_rt=share_pw

西洋中心主義の批判であるうえでは西洋文明=家父長制としていればよかったんだけど、西洋文明が輸出されて別な場所で別の類似物ができてきたとき、それは「西洋文明」と名指されるべきなんだろうか。すくなくともそういう自認をしてこなかったからこその大東亜共栄圏ではあって。実態として西洋の覇権主義的な文明と帝国日本のなにが違うんだと思っても、家父長制批判が西洋批判と同一視される限りにおいて日本がするっと批判の網から抜けてしまうことがおうおうにあることは、ちょっと厄介だなと感じる。

フェミニストが言う家父長制って、男性がイエを管理する社会的な制度のことではなくてユダヤ・キリスト教的な一神教の諸概念を制度的に敷衍したものだとおもうけど、そうであるがゆえに家父長制のイメージに多様性があまりない。日本の天皇制が西洋の一神教的な家父長制を模倣したものであることは自明だけど、構造的には模倣しているがやっぱり別な存在として作られた家父長制ではあり、そのせいで(?)家父長制もまた多元的であると言ってもいいようにおもうのだが、そういう言説をあまり見ていない気がする。

エスコバル開いている

テキストというものがWebに合わせて読みやすく整形されていっているので、こういう読みづらい文章が並ぶのはそれだけで挑発的だと感じる

エクリはいちおうデザイン思想のメディアではあるのだけど、凝った文章でもあり、分類しづらさもある。読まないんだけど圧迫感のあるこの感じが嫌いではない。

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