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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

それはともかく、印象派にとっては日本とは「新たな伝統」の起源にあるものとして「プリミティフ」だった。その後のアヴァンギャルドはいつも「新たな伝統」の「起源」を作りだす(捏造するといってもいいかも)、そういう「起源」の創出がプリミティヴィズムという運動である。

「のちに展開するプリミティヴィスムの一種」はちょっとおかしい、もともと「プリミティフ」という用語は美術においてはファン・エイクやロヒール・ファン・デル・ウェイデンら初期ルネサンスを指す語だった。プリミティフとは、「新たな伝統の創始者」を指していて、セザンヌが「プリミティブにならなければ」といったのも、新しい伝統を始めるための開始点に自分がいるという自負を述べている。プリミティヴィズムにおける「原始」への回帰というのは、差別的な意味で「野蛮」になることではなく、積みあがった文明の蓄積をすてて最初からやりなおすことでもあったのだけど、それが黒人彫刻や部族美術を「プリミティブ・アート」と呼ぶようになることで意味が変わる。
ちなみに、ルービンは「プリミティブ・アート」という呼称を1905年前後としているが、大久保恭子はフォーヴィズムの画家たちはずっと「アール・ネーグル」と呼んでいて「アール・プリミティフ」とは呼んでいなかったとしている。

ていうかジャポニズムがのちに展開するプリミティヴィスムの一種だという見解は、すでにウィリアム・ルービンが「プリミティヴィズム」図録の日本語版のあとがきで述べているな。

ソフトウェアの開発、自分を規準として作ってしまうと「障害」を作りだしてしまう

僕は今も障害者運動に類するものとはそれほど近い位置にいないのだけど、若い頃はもっと意識的に距離を置いていた、というか避けていた。それは、今思えば自分はそういうことしなくても社会の中でやっていけてるし、みたいな思い上がりがあったからなのだろうと思うけど、ともあれそんなだったから、アクセシビリティーが障害者が何かを求めている、というような見られ方をされないようにということをすごく意識してた。それもあって、「アクセシビリティーは決して障害者だけのためのものではない」ということを、必要以上に強調してしまったのだろう。
でも、結局30年近くこの分野でやってきて、そもそもその姿勢が良くなかったんだなあと反省してる。
技術論はちゃんと発信さえすれば、必要性を感じている人には届くけど、考え方はそう簡単には浸透しない。だから先人も、そして今活動している当事者も苦労し、いまだに運動を続けなければならないのだろう。
アクセシビリティーに真剣に取り組むということは、それは社会運動、人権運動に取り組むということなのだということを、ここ数年ずっと考えてきたけど、先日の名古屋のイベントの様子を見てそれが確信に変わった感じがする。

アクセシビリティーの技術的部分というのは、その根本にある考え方を身につけた上で、アクセシビリティーに関係ないものも含めて新しい技術を正しく理解する姿勢があれば概ね何とかなるものだと思う。
ただ、その根本の考え方みたいなものを本当に身につけている人がそんなに増えていなくて、結果としてアクセシビリティーの取り組みが障害当事者から離れて行っている感じがするような気がしてならない。
これは「アクセシビリティーは必ずしも障害者だけのためのものではない」みたいなことを言って裾野を広げようとしてきた僕たちにも責任があるのかもしれない。もちろん正しいことを言ってるのだけど、でも障害者のアクセスが改善できることは大前提で、そこをすっ飛ばしてしまったらほとんど意味はないということが伝わっていないのかもしれない。
技術論はそれはそれで大事だけど、「障害の有無に関係なく、情報には誰でも同様にアクセスできる必要がある、それは現代の社会における基本的人権である」ということが共有できていることがまずもって大事だと思う。

ムシがしゃべるよ

メモ
「バイナショナリズム」今日出てきたアーレントの重要ワード。
イスラエルとパレスチナの人々の共生について、「ふたつのナショナリズム」という意味ではない(二井氏)

二井氏の解釈はこれがわかりやすい↓
https://www.eaa.c.u-tokyo.ac.jp/blog/academicfields5/#:~:text=二井氏は、「バイナショナリズム,する態度だからである。

しゃべったぁぁぁぁぁぁぁ

大久保の論考によれば、「プリミティフ」の対象はもともとは14〜15世紀のイタリア・フランドルの画家を指していたのが、次第にその対象とする範囲を広げ、ゴシック、ロマネスク、ビザンチン、エジプト、ギリシャなどを指し示すようになった。
1910年くらいを境に、ジャポニズムが後退して変わりに「プリミティヴィスム」が流行することになるけど、ジャポニズムのとき日本は「プリミティフ」だった。プリミティフとは過度に発達した文明以前を指していたのだから、日本が「ジャポニズム」として流行したのは、日本の近代化以前の姿であって、1910年ころになると日本は日露戦争の勝利から日韓併合など、暴力的な近代国家としての姿を現しはじめる。
ジャポニズムとプリミティヴィスムは事実上地続きの現象で、日本が近代化したからヨーロッパにおける流行としては終わったものとおもわれる。

図書館で確認するか...
どうせフランス語とか読めないし

「大地の魔術師たち」展図録くそ高いな

大久保恭子『〈プリミティヴィスム〉と〈プリミティヴィズム〉』を再読している、まじで名著だなとおもうけど、あんまり読まれてる気がしない。
artscape の「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」展の項目は成相さん執筆だけど、参考文献に吉田憲司『文化の発見』はあっても大久保の本はあげられていない。
https://artscape.jp/artword/7087/

セブン&アイの買収提案がカナダからあるという話、過剰な円安で海外からみたら日本企業がめちゃくちゃ安く見えてしまうからだけど、これDICに海外ファンドが食い込んできたのと同系統の問題だなと思う。西武が外資に買われたとき、いくつかの路線の廃止とライオンズの売却という提案があったりで、資本効率のためには住民サービスとかは完全に無視する。
https://www.bbc.com/japanese/articles/c7v5l478p7zo

ミシェル・レリスとかもぜんぜん読んだことないな

結局 honto の書籍販売をやめた理由よくわからないんだけど、トーハンの売上を食ってしまったとかそういうこと?
https://news.mynavi.jp/techplus/article/20231207-2834985/

いやまだあるにはあるな

hontoは消滅してしまった

水声社で直接購入するのハードルが高すぎる Amazonで売らないのはいいんだけど、支払いは代引、現金書留、郵便振替なのクレカとかそういうの使わせてほしい...

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