https://note.com/miyako_tu_/n/na32e64f1b8a0?sub_rt=share_b
展覧会特集のフォスターやクリフォードらに言及してる項目はIH、つまり池上裕子なので、えっ『越境と覇権ーロバート・ラウシェンバーグと戦後アメリカ美術の世界的台頭』の池上? もっとそういう仕事してもよかった人なのか?? という反応になるやつ。
https://researchmap.jp/read0107023
英国ブラックアートを90年代初頭から扱ってた萩原弘子が、なぜか全然読まれてないのと同じで、注目されてしかるべきだったのに放置されたりしたんかな〜と思った。
http://kumitate.org/matsuura/matsuura.html
いや、ジェイムズ・クリフォードは勉強するならみんな名前ぐらい知ってたと思うよ。04年に出た『西洋美術研究』10号をリアタイで読んで、すでに油性マジックで私はチェック入れてるよ。美術プロパーでもない私が。
三元社の『西洋美術研究』って、「日本だとどうしても保守的歴史研究多いな〜。でもたまに興味を引く論考もあるじゃん。さらに読むなら英語圏の『Representations』(https://en.wikipedia.org/wiki/Representations )とかニューアートヒストリー以後のジャーナルを掘るしかないか〜」ぐらいに考えてた。
この展示の企画意図はかなりおもしろいとおもうのだけど、図録を見てひっかかるのは、様式なるものを仮構して表面的な類似をもって配列している点。まさしくこのような表面的な類似をもってモダニズムのアートと部族美術を並べて「親縁性 affinity」という概念でMoMAがおしきろうとしたことを、クリフォードは批判しているのだけど、建畠やこの企画を推進した学芸員たちは(この時点で)クリフォードを読んでないのではないかとおもわれる。というのも、建畠の序論にまさに「親縁性」という語がでてくるがそれはベンヤミンから引っ張られてきている。ポストコロニアルな問題設定の企画で、「アジアのプリミティヴィズム」といったキーワードも書きながら、「親縁性」という語にクリフォードへの注釈をつけないのは、わざとでなければ読んでいないからとしか考えられないし、読んでいたらたぶんこの配列にならなかったとおもう。
建畠晢がこの流れに触れているのは重要なんだけど、↓こういう見解で、「現代美術の本質」とマルチカルチャリズムを明確に区分してしまう。ていうか建畠の見解では、こういう大地の魔術師たちからヴェネチアヴィエンナーレ、ドクメンタにおけるキュレーションの諸問題は「現代美術の本質ではない」とまで言っているに等しい。
https://www.kcua.ac.jp/arc/023-2/
建畠氏は,国際展は現代美術の本質の理解にはあまり役立たないという。国際展は,様々な人々,考え,文化が存在するという多様性を保証するものであり,市民社会を寛容なものにすることに意味があるのである。多様性を喜びをもって受け入れ,コミュニケーションを生み出すことにアートの機能があるのではないかと建畠氏は述べた。
クリフォードも人類学もいろいろなところで参照されるし、しっかりした翻訳もあるのに、日本の美術畑からはほとんど無視されたのはなんなんだ。