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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

ていうかアヴァンギャルドが常に他の文明の美術っぽいものに範を仰ぎつづけたのはなぜなのかについて、明快に書いている論考を読みたい

シュルレアリスム知らなすぎる
調べなきゃいけない気がする

羽仁五郎、「ミケルアンジェロ」しか読んでないけど、ほかも読みたいタイトルが結構あるな

文章の勢いすごくて笑ってしまった
https://note.com/miyako_tu_/n/na32e64f1b8a0?sub_rt=share_b

スレッズたまに開くと、まじで謎の持論が流れてきて笑ってしまう

Tシャツ短パンみたいな格好で図書館きたら寒すぎる

並べてみてあまりにはっきりしてしまうのは、90年代からゼロ年代の日本のアートインテリのホモソーシャル性で、同時期に女性研究者がポスコロやフェミニズムに重要な研究をしていて、強い注意喚起を促しているのにアートインテリサークルがそれを重要視していない。松浦寿夫選書も2010年代というのに、人類学はおろかフェミニズムも一冊もない。

展覧会特集のフォスターやクリフォードらに言及してる項目はIH、つまり池上裕子なので、えっ『越境と覇権ーロバート・ラウシェンバーグと戦後アメリカ美術の世界的台頭』の池上? もっとそういう仕事してもよかった人なのか?? という反応になるやつ。
https://researchmap.jp/read0107023

英国ブラックアートを90年代初頭から扱ってた萩原弘子が、なぜか全然読まれてないのと同じで、注目されてしかるべきだったのに放置されたりしたんかな〜と思った。

芸術を学ぶための松浦寿夫選書にも、ジェイムズ・クリフォードも人類学関連の書も一切ない
http://kumitate.org/matsuura/matsuura.html

建畠は吉田憲司の本は読んだだろうけど、あれを読んだうえで「国際展は現代美術の本質の理解にはあまり役立たない」と考えているのであれば、クリフォードや吉田による批判はまったく理解していない。「アジアのキュビスム」は林道郎とかもいるけど、企画者のなかで展示の方法についてクリフォードや吉田の批判を踏まえようという議論はなかったとおもわれる。

大久保恭子『〈プリミティヴィスム〉と〈プリミティヴィズム〉』が2009年発売だけど、論考の初出は2001年、2003年、2004年、2009年。吉田憲司の『文化の発見』は1999年か。

ジェームズ・クリフォードのMoMA批判が欧米で刺さったのは、キュレーションという実践的な問題に対してだとおもうけど、たぶん2010年前後くらいから、遠藤水城、黒瀬陽平、長谷川新あたりがこのへんの流れを洗い直しているようにはおもう

ジェームズ・クリフォードは認知されていたとおもうんですが、あんまり影響を与えた形跡が見当らないというか。もしかしたら北川フラムとかは読んでいる可能性あるかもしれないけど。

西洋美術研究10号、重要そうだし買うか

いや、ジェイムズ・クリフォードは勉強するならみんな名前ぐらい知ってたと思うよ。04年に出た『西洋美術研究』10号をリアタイで読んで、すでに油性マジックで私はチェック入れてるよ。美術プロパーでもない私が。

三元社の『西洋美術研究』って、「日本だとどうしても保守的歴史研究多いな〜。でもたまに興味を引く論考もあるじゃん。さらに読むなら英語圏の『Representations』(https://en.wikipedia.org/wiki/Representations )とかニューアートヒストリー以後のジャーナルを掘るしかないか〜」ぐらいに考えてた。

http://www.sangensha.co.jp/allbooks/swa.htm#126

おそらく、「アジアのキュビスム」展(2005、東京、韓国、シンガポールに巡回)は、ヨーロッパにおけるマルチカルチャリズム的な展示の影響下で企画されたのではないかとおもわれる。日本語図録の序論を書いているのが建畠である。
この展示の企画意図はかなりおもしろいとおもうのだけど、図録を見てひっかかるのは、様式なるものを仮構して表面的な類似をもって配列している点。まさしくこのような表面的な類似をもってモダニズムのアートと部族美術を並べて「親縁性 affinity」という概念でMoMAがおしきろうとしたことを、クリフォードは批判しているのだけど、建畠やこの企画を推進した学芸員たちは(この時点で)クリフォードを読んでないのではないかとおもわれる。というのも、建畠の序論にまさに「親縁性」という語がでてくるがそれはベンヤミンから引っ張られてきている。ポストコロニアルな問題設定の企画で、「アジアのプリミティヴィズム」といったキーワードも書きながら、「親縁性」という語にクリフォードへの注釈をつけないのは、わざとでなければ読んでいないからとしか考えられないし、読んでいたらたぶんこの配列にならなかったとおもう。

建畠晢がこの流れに触れているのは重要なんだけど、↓こういう見解で、「現代美術の本質」とマルチカルチャリズムを明確に区分してしまう。ていうか建畠の見解では、こういう大地の魔術師たちからヴェネチアヴィエンナーレ、ドクメンタにおけるキュレーションの諸問題は「現代美術の本質ではない」とまで言っているに等しい。

https://www.kcua.ac.jp/arc/023-2/

建畠氏は,国際展は現代美術の本質の理解にはあまり役立たないという。国際展は,様々な人々,考え,文化が存在するという多様性を保証するものであり,市民社会を寛容なものにすることに意味があるのである。多様性を喜びをもって受け入れ,コミュニケーションを生み出すことにアートの機能があるのではないかと建畠氏は述べた。

裏付けをとっていくまでのやる気はないのだけど、欧米のアートの流れでMoMAのプリミティヴィズム展(1984)とクリフォードによる批判は、その後の大地の魔術師たち展(フランス、1989)とか、ドクメンタの流れにも、マルチカルチャリズムを前提としてどうキュレーションするのかという課題があきらかにあり、それに対応する言説はクリフォードをはじめとする人類学方面からでてきている(クリフォードは人類学者と言っていいのかはわからないけど)。
クリフォードも人類学もいろいろなところで参照されるし、しっかりした翻訳もあるのに、日本の美術畑からはほとんど無視されたのはなんなんだ。

j-stage で「文化の窮状」で検索してみて、さまざまな言及はあるものの美術プロパーっぽいところからの言及はあんまなさそう(自分が「アートっぽい」と感じる系のがj-stageの対象になっていないとかはありそうだけど)

南米の文化に混血性を見出すことができ、レゲエが文化の交錯のなかで生じたハイブリッドなものだということを認めたとしても、シオニズム/ユダヤ教に影響を受けたラスタファリ運動はハイブリッド性で説明できないものがある(交錯していないから)。

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