大久保の論考によれば、「プリミティフ」の対象はもともとは14〜15世紀のイタリア・フランドルの画家を指していたのが、次第にその対象とする範囲を広げ、ゴシック、ロマネスク、ビザンチン、エジプト、ギリシャなどを指し示すようになった。
1910年くらいを境に、ジャポニズムが後退して変わりに「プリミティヴィスム」が流行することになるけど、ジャポニズムのとき日本は「プリミティフ」だった。プリミティフとは過度に発達した文明以前を指していたのだから、日本が「ジャポニズム」として流行したのは、日本の近代化以前の姿であって、1910年ころになると日本は日露戦争の勝利から日韓併合など、暴力的な近代国家としての姿を現しはじめる。
ジャポニズムとプリミティヴィスムは事実上地続きの現象で、日本が近代化したからヨーロッパにおける流行としては終わったものとおもわれる。
1910年くらいを境に、ジャポニズムが後退して変わりに「プリミティヴィスム」が流行することになるけど、ジャポニズムのとき日本は「プリミティフ」だった。プリミティフとは過度に発達した文明以前を指していたのだから、日本が「ジャポニズム」として流行したのは、日本の近代化以前の姿であって、1910年ころになると日本は日露戦争の勝利から日韓併合など、暴力的な近代国家としての姿を現しはじめる。
ジャポニズムとプリミティヴィスムは事実上地続きの現象で、日本が近代化したからヨーロッパにおける流行としては終わったものとおもわれる。
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「のちに展開するプリミティヴィスムの一種」はちょっとおかしい、もともと「プリミティフ」という用語は美術においてはファン・エイクやロヒール・ファン・デル・ウェイデンら初期ルネサンスを指す語だった。プリミティフとは、「新たな伝統の創始者」を指していて、セザンヌが「プリミティブにならなければ」といったのも、新しい伝統を始めるための開始点に自分がいるという自負を述べている。プリミティヴィズムにおける「原始」への回帰というのは、差別的な意味で「野蛮」になることではなく、積みあがった文明の蓄積をすてて最初からやりなおすことでもあったのだけど、それが黒人彫刻や部族美術を「プリミティブ・アート」と呼ぶようになることで意味が変わる。
ちなみに、ルービンは「プリミティブ・アート」という呼称を1905年前後としているが、大久保恭子はフォーヴィズムの画家たちはずっと「アール・ネーグル」と呼んでいて「アール・プリミティフ」とは呼んでいなかったとしている。
ちなみに、ルービンは「プリミティブ・アート」という呼称を1905年前後としているが、大久保恭子はフォーヴィズムの画家たちはずっと「アール・ネーグル」と呼んでいて「アール・プリミティフ」とは呼んでいなかったとしている。
それはともかく、印象派にとっては日本とは「新たな伝統」の起源にあるものとして「プリミティフ」だった。その後のアヴァンギャルドはいつも「新たな伝統」の「起源」を作りだす(捏造するといってもいいかも)、そういう「起源」の創出がプリミティヴィズムという運動である。
これ、芸術家たちがそもそも美術史をかなり意識したうえで、その物語の書き換えを狙った行為でもあり(たえず発生しつづけるルネサンス)、アヴァンギャルドっぽいとも言えるしバカバカしいとも言える。じっさい、セザンヌが自分のことを「新たなる芸術にとってのプリミティヴなる者」と言ったのもかなりバカバカしい響きがある。
ルービンによるジェームズ・クリフォードへの反論を読んだけど(これは「プリミティヴィズム」展図録の日本語版にしかないようである)、かなり難しい問題だなこれ。芸術における普遍主義が西洋中心主義とおなじなのかどうかは、議論の一つの中心だけど、ルービンはこの回答は開きなおることできれいに避けているんだよな。