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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

飯山由貴特集見てきた。In-Mates は揺さぶられた。この優れた作品が検閲云々の話になってしまうのは勿体無い(検閲になった意味がわからない)。たぶん8月末まで見ることができると思うので未見の人はぜひ。
https://twitcasting.tv/c:nakedloft_yokohama/shopcart/322347
他は hidden names がよかったな。弱者を作品の中で表象することについて、精神病棟の歴史と資料を紐解くことで、問いとして立ち上がる。よくできている。

昭和天皇のクズ発言・クズ行動一覧 | ガラパゴス速報
https://galapgs.com/politics/words-of-hirohito/

“日本は併合の直後から朝鮮の村祭りを禁止した。また、村祭りにともなう綱引き、石戦、車戦、木牛戦などの民俗戯も、それに仮面劇の上演も禁止した。金淑子さんの体験を一例にして示したように、朝鮮民俗芸能の中心的保持者であるムーダンたちのことも抑圧し、各地を放浪するとくに一般民衆との交流のつよい下級パンソリ演唱者たちに阿片をのませ、芸ができないようにした。さらに村祭りと共に民俗芸能の空間でもある市場も弾圧した。一時は、民謡の「アリラン」でさえも、その歌唱を禁止した。そしてこうした直接的禁圧の一方で、初等学校をはじめとする教育機関、警察、行政機関、ジャーナリズムを総動員して、朝鮮の民俗文化、民俗芸術を、迷信的であり、劣等な後進的なものだとする植民地史観、文化観を朝鮮人にたいして植えつけていった。すなわち、日本の植民地支配は、外部と内部の両方から朝鮮の民俗文化、民俗芸術を解体し、歪曲し、断種しようとしたのである。”

読ませる記事だった。

久保覚「中上健次は軽蔑に値する」(1982)

https://suigyu.com/suigyu-tsushin/html/1982_07.html#%83R%83s%81%5B%95%B6%89%BB%8E%9E%91%E3%82%CC%92%98%8D%EC%8C%A0

"沖縄戦について教科書で記述されるようになったのは主に復帰後ですが、1982年、文部省の検定で、高校日本史教科書における、「日本軍による沖縄戦での住民虐殺の記述」について、検定意見がつき削除されています。 アジアへの「侵略」を「進出」などに“書きかえさせる”検定が問題視されていた頃です。記述の元になった『沖縄県史』は、一次資料としては認められませんでした" https://d4p.world/28734/

この時期になるとTwitterで「おじいちゃんが戦争で心を病んだ、だから戦争はだめだと言ってたし私もそう思う」的な漫画が流れてきて、それはまあいいことなんかもしれんけど、正直言うと、そういうの見るたびに「あなたのおじいちゃんはきっと、ご自分がやった本当にひどい行為のことは話していない」と思うようになってしまった

ご家族の個人的なことを他人みんなに話す必要はないから漫画に書かなくていいんやけどさ、結局、「おじいちゃんを含む日帝軍の人たちがやったこと」が矮小化された中途半端な反戦漫画になってしまってるよな
だから個人の語りに任せたらあかん、公的機関がちゃんと認めて振り返り続けなあかんと思う

プロパガンダとはいえ、分析はしっかりとしてるな。
今でも通用してしまう指摘なのがアレだよねー(;´Д`)

戦中戦後の日本を米国人記者はこう見ていた | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/mag/19/121300002/020400025/

こつこつ、気になる作品について調べたり考えている

香月泰男の《水鏡》について
https://scrapbox.io/sayurimiyashita-68577845/%E9%A6%99%E6%9C%88%E6%B3%B0%E7%94%B7%E3%81%AE%E3%80%8A%E6%B0%B4%E9%8F%A1%E3%80%8B%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6

たとえば、これまで戦後補償として論じられてきた問題も脱植民地化という枠組みで理解できる。歴史をさかなでるこれら「他者からの呼びかけ」は、「日本の脱植民地化はいまだに終焉していない」ことを示している。これは、ともすれば糾弾の声として否定的な響きをもつように受け取られるかもしれない。しかし、その声は、むしろ新たな関係を日本とのあいだに構築したいという希望の声ではなかろうか(徐 二〇〇二)。それは時間の連結をとおした未来の再想像へ、われわれを一緒に誘う声である。脱植民地化の時間においては、植民者が自らの過去を忘却することにより被植民者と共有できる未来はなく、植民者としての過去を記憶し続けることから、被植民者とともに人間性を回復しなければならないだろう。

太田好信「解説 批判的人類学の系譜」(『文化の窮状』所収)

各国博物館が脱植民地主義の方向に向かっている現在に、日本の国立西洋美術館が西洋近代の美術に固定されつづけていることをどう考えていいか、よくわからない

高井さんのこの言葉はすごくよかった。

ちなみにわたしは、なにかを中傷するために「同人誌」という言葉を使ったりは絶対にしませんよ。トランスやクィアの文化(カルチャー)を支えてきたのは、そして支え続けているのは、まさにそうした同人誌やジンですから。それに、自分たちで集まってものを作るって、そごく素敵なことじゃないですか。 https://x.com/Yutorispielraum/status/1823719508433100841

日本が、明治維新の際に、欧米からの自立を守るというだけではなく、帝国として出発した理由があまりわかってなかったけど(経済的・軍事的合理性があるように思えない)、西南戦争のような内戦を経て分裂状態を抱えるところから、外部に敵をつくりだすことで国内を「日本」というまとまりとして創出するために外部に眼を向けているだけだよな。

国民帝国は主権・国民国家としては内部における等質性と平等性を追求しつつ、帝国としてはそれらの異質な法域を統合しつつヒエラルヒッシュに編成して外縁を拡張していくこととなった。(中略)帝国とは、こうして多様性や混成性を許容しながら、中心(本国)を基準とした価値基軸からの隔たりによって差異を序列づけつつ、一つの統合体系の一部として包摂していく差異のポリティクスとして現れることになる。

ああー、「帝国主義」という用語と「植民地主義」という用語の差の説明にかなり納得した。20世紀初頭にレーニンらをつうじて資本主義の発達への批判的用語として「帝国主義」は定着したが、「植民地主義」は1950〜60年代にかけて、アジア・アフリカ諸国の脱植民地化における経験を指して定着していった用語である。形式的には独立国家となったが、実質的には旧宗主国に対する経済的不平等があったりする場合にも、植民地的性格があるわけで、これを克服するために植民地主義という用語で分析枠組みを提供してきた。帝国主義は、むしろ帝国の内部での問題であり、帝国主義の分析では植民地になった側の経験を記述できない。アジア・アフリカが脱植民地化という過程に踏み出すなかで、同時期にイスラエルがきわめて古典的な植民地主義を再演していたことが注目された。
自分は帝国主義と植民地主義の用語はごっちゃにしていた。実際としては帝国のやっていたことの清算なんだけど、分析枠組みとしては違うことを理解しておかないといけない。

シオニズムを近代的植民地主義の延長とみなすのはやっぱり間違っているんじゃないかな。とおもったらちょうどこういうのがあったので読む。

委任統治下パレスチナにおける「民族対立」の創出の背景
金城 美幸
https://www.jstage.jst.go.jp/article/yudayaisuraerukenkyu/32/0/32_60/_article/-char/ja

「朕」によって主体性が奪われたというのもわからないではない話だけど、香月とほぼ同世代の松本竣介はもっと反抗的な絵を戦前に描いているよね。主体としての自己を確認するかのように。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:MatsumotoShunsuke_Standing_Figure.png#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:MatsumotoShunsuke_Standing_Figure.png

先日日曜美術館でこの作品が出てきた。
https://vam-yamaguchi.com/item1_14/
『朕』
〈画家のことば〉
人間が人間に命令服従を強請して、死に追いやることが許されるだろうか。民族のため、国家のため、朕のため、などと美名をでっちあげて・・・・・・。
朕という名のもとに、尊い生命に軽重をつけ、兵隊たちの生死を羽毛の如く軽く扱った軍人勅諭なるものへの私憤を、描かずにはいられなかった。敗戦の年の紀元節の営庭は零下30度余り、小さな雪が結晶のまま、静かに目の前を光りながら落ちてゆく。兵隊たちは凍傷をおそれて、足踏みをしながら、古風で、もったいぶった言葉の羅列の終るのを待った。
我国ノ軍隊ハ世々、天皇ノ統率シ給フ所ニソアル・・・・・・朕ハ大元帥ナルソ、サレハ朕ハ・・・・・・朕ヲ・・・・・・朕・・・・・・
朕の名のため、数多くの人間が命を失った。

絵には軍人勅諭と、その中に無数の朕の字が書かれている。

『シベリヤ画集』(新潮社、1971年)
香月泰男

とか書いてみておもったけど、こういう前提でたとえばヴェネチアビエンナーレとかどう理解すべきなんだろうな。ワールドカップとかオリンピックとかもそうだけど。

昨日も書いたけど、ポストコロニアル下で現れるナショナリズムの典型はシオニズムだとおもわれ、土地=民族=国家を一体とする。これは端的に近代的な帝国の解体と同時に現れると考えられる。帝国というのはまがりなりにも多民族国家的な性格があるけど、それが解体して一民族国家イデオロギーが成立するという流れがある。現在の戦争の多くはこのナショナリズムというガソリンに火をくべる連中がいることによって成立するのだから、ポストコロニアル下におけるナショナリズムの次のモデルを考えなければならないはずだと思う。ナショナリズムを利用した戦争状態の継続を望む存在がいることにまず留意する必要がある。

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