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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

すばらいい!!
アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」( )が以下の告知をウエッブに掲載しました。

https://wam-peace.org/news/10316
X、Facebook、Instagramの利用をやめます。
2025年1月26日

1月31日をもって、X、Facebook、Instagramのアカウントを削除し、利用をやめることにしました。
wamからのお知らせや情報は、本ウェブサイト、会員向けメーリングリスト、紙媒体の会員向けニュースレター『wamだより』を通じてお伝えしていきます。

昨年末から世界規模でX(旧Twitter)からの撤退が加速しています。「使わない」という意思表明のためにも、1月末までの残りの数日間は、 のハッシュタグを広めることにwamのX、Facebook、Instagramを活用します。

wamではオルタナティブのSNSへの移行はまだ検討中です。お勧めのSNSなどについては、「 」キャンペーン(フランス語・英語)をぜひご覧になってください。

エスコバル読みながら、明治美術を近代化という枠組み以外で読解したいなという思いもでてくる

エスコバルのこの経済学批判おもしろいな。

> 「我々の未来は、経済学の科学と呼ばれる近代の魔術によって概念化され、かたちづくられている」(Nandy 1987, 107)(...)この問題は、経済学をはるかに超えている。つまり、十八世紀後半以降のこの科学の台頭には、さらに広範な文明の発展が隠されている。それは、思考と行動の独立した領域としての"経済"というものの発明だ。これはもう一つの協力な虚構である自己調整市場と結びついており、経済学の科学はそれに関する真実を語りうるとされる。(...)その結果、トニー・フライが言うように、「経済成長という屠殺台の上で未来が抹殺されている」(Fry 2015, 93)のだ。(『多元世界に向けたデザイン』p.163)

@miyarisayu 1章のジャコメッティからシュルレアリスム写真の話は再読しても面白かったけど。

スーザン・スレイマンによるデュラスの『ロル・V・シュタインの歓喜』批評を肯定的に引用しておいて、スレイマンから受けた自身のシュルレアリスム論への批判(シュルレアリスム写真が女性的なるものであるとして論じる写真家が男性のみであること。女性のシュルレアリストがいるにも関わらず、その主体性の差異を考えないこと)に対して反論をしているのだが、ドラ・マールを軸にしてある程度反論できていると思う。でも2章まで読み進めると、頑なに芸術家のジェンダーを考慮しない姿勢は問題で、スレイマンの批判は意味があると思うなあ。
それに反論のなかでクラウスは『ロル・V』の語り手のあり方と、ブルトンの『ナジャ』の語り手のあり方が同質であると言っているが全然、全然違うでしょう。『ロル・V』を読めばそんなこと言えないと思うけれど。

ひさしぶりにクラウスの『独身者たち』を読んでいて、2章まできたが、ブルジョワについては完全に的外れなことが書いてあるな。ブルジョワの作品は再生産をこそ主題にしているのであって、独身者の機械(ドゥルーズ=ガタリの欲望機械)を当てはめるのは無理でしょう。母と子の関係性が明瞭な作品を排除して自論を構築するのに適うものだけ見せているとしか。悪いわぁ。
昔読んだときは漫然と読んでしまっていたな。再読するのは面白いなあ。

Xで「朝起きたらアメリカのLGBTブーム終わってて草」というポストに32万いいねついていた件。なるほど、多くのネット民にとっては「LGBT」とは映画やアニメの中でキャラクターによって演じられるものであり、現実のわたしやあなたの話ではないんだ。クィアベンディングの問題とはそういうことなんだ。

クラウス『独身者たち』のブルジョワの章だけ読んで、ブルジョワの初期作品から彫刻への展開がいかにシュルレアリズムの造形語彙のなかでおこなわれているかという強調をしていて、いやわかるしその通りなんだけど、もっと細かい話を読みたかった。後半はわりとお決まりのクラウス節っぽい感じだったし...。

ホワイトハウスのウェブサイトから「Accessibility Statement」が削除、2017年もあったと
https://x.com/makoto_ueki/status/1881916416372420871

ていうかこういうのを薄めると designship みたいになるわけか。

拡張するデザイン、もしくはデザインではない何かへ──「Designs for the Pluriverseを巡って:デザイン、人類学、未来を巡る座談会」前編
https://www.cultibase.jp/articles/4691

いま読んでいるエスコバルの「多元世界に向けたデザイン」、こういうところでは受容される地盤がそもそもない。

しかし Designship に期待していないとはいえ、こうも安直に直線的な歴史観を披露し、そのなかに人類学とかコ・デザインとかを配置していくの、文脈をわかっていないというかめちゃくちゃスポイルしているんだけど、無意識なんだろう。れいによってこのなかにはフェミニズムもポストコロニアリズムも入っていないわけだけど、人類学がデザインを語りだした理由はまったく理解していなくてトレンドとして・技法としておっかけているだけなんだろう。
https://design-ship.jp/2024

元の「融けるデザイン」はいい本で、「デザインはもう融けた」は本に対しては頓珍漢な記事でしかないけど、こうして口当たりよく解釈されるのも、そもそも「融けるデザイン」が弁証法的契機に欠ける以上はやむをえないところもあるとは感じる。

上野さんの記事と比較すると、「デザインはもう融けた」とはデザイナーのインハウス化ということがひとつある。このデザイナーのインハウス化というのがソフトウェア業界ではこの15年で進行していて、これは意味がない話ではない。デザインという活動が資本の活動にまるっと飲み込まれ、管理者とユーザーの弁証法的関係を完全に解消している。労使協調路線で御用労組になったのとおなじことが起きている。

で、「デザインはもう融けた」という例の記事と比較してみると、けっこうおもしろいとおもっていて、この記事で「ユーザーが本当に求めている体験を提供できれば、自然と売上や継続率も伸びる」とある。この命題に真実がないわけではないが根本的に神話であって、「事業者/ユーザー/デザイナーの調和した関係」こそが売上だということ。この記事における「融ける」とはそういうことだが、この命題が神話であることはGoogleの Don't be evil とかどこいったんだっけとか思いだせばいい。スタートアップの初期を駆動する神話である。
https://blog.tsubotax.com/n/n00846669e259

これは15年くらい前の上野学さんのブログ記事で、まあタイトルでわかるとおり共産党宣言のオマージュなんだけど、この記事が指摘しようとしている構造というのはシステムのオーナーとユーザーの間で利害の不一致があり、デザイナーがユーザー利益からシステムを提案するとコンフリクトが起きる。上野さんはそれを「闘争」と呼ぶんだけどこれは資本家と労働者の関係をシステム管理者とユーザーの支配関係になぞらえて、その力関係の逆転を試みることを「闘争」としているのであって、ここではデザイン活動とは弁証法的なものとして把握されている。
https://modelessdesign.com/modelessandmodal/2010/01/06/manifesto-of-the-modelessist-party/

この図、デザインにおけるproblem−solvingの欺瞞という眼差しがあるかないかで全く見え方が変わるのだと思う

DesignShip2024のトップページの図のスクリーンショット。下に広がる三角形で、上から19世紀、下に向かうほど現代という矢印が左に描いてある。上から順にグラフィック(サイン・書体・紙)、プロダクト(車、家具家電、モノ)、インタラクション(Web,アプリ、UI、コト)、システム(モデル、サービス、社会)と書かれており、周りには〇〇デザインのようなデザインにまつわるキーワードが多く散りばめられている。デザインの「意味と対象の広がり」が表されている。

DesignShipあたりのビジネス文脈だとインターフェースデザイン→(Web時代の)インタラクションデザイン→サービスデザインとリニアな進化をしてきたという歴史観があって、その周辺のどこかが融けるデザインを参照してるのではないかなあ https://design-ship.jp/2024

細かいどうでもいいこと言われてムカつくというのわかる

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