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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

htmi5の仕様策定でw3cと対立したのも同じ流れっぽい気がするな

がいかにして rss を無効化してきたかの歴史を振り返る記事。

tony_sigh Chrome から rss ボタンを削除
tony_sigh を買収した後に閉鎖
tony_sigh の閉鎖
tony_sigh アラートから rss 昨日を削除
tony_sigh rss アドオンも削除
tony_sigh からも rss を削除
tony_neutral 2021年に rss 機能の復活に取り組んでると発表したがその後、正式リリースについては音沙汰なし

こうやって振り返ると、 はある時期からあらゆるプロダクトのユーザーから rss の存在を隠すというか消していってるんだよな…

https://openrss.org/blog/how-google-helped-destroy-adoption-of-rss-feeds

問題文(問題のある文)

財務省うんぬんはなんでこんな陰謀論が流行ったんだって感じだな

斎藤元彦を応援するひとがまだ大量にいるのがすごい

宝くじ公式サイト、パチンコより断然やばいなこれ。

メタクソ化、いい翻訳だなとおもうけど、たぶん英語の enshittification ほど寿命はもたないんじゃないかな。日本ではメタクソ化するようなプラットフォームを作っていないので、批評の対象がtwitterとかgoogleとかそういうのになる。楽天とかabemaとか「メタクソ化」と呼ぶ事象にたぶん入らなくて、日本の状況を見る枠組みとしてあまり適切ではない印象がある。

それが適切であるかどうかはある意味でどうでもよく、その言葉の響きが力を発揮するかどうかが重要で、この訳者の方はすごい仕事をしているなぁという感想。元の enshittification もすごい。

造語のもつ作用、キャッチーでなんとなく状況を理解した気にさせるものであれば、しばらくの間は言論状況を左右することになる。それは批評がもっている力でもあり、ポジティブでもネガティブでもあるよなぁと、「悪い場所」という言葉を思い出すのだった。
https://p2ptk.org/activism/4946

@osapon
https://p2ptk.org/activism/4946 の下の方に訳者がなぜ「メタクソ化」にしたかの話があります。個人的には「ボロクソ化」もアリだったかと思います。

メタクソ化のメタって何?クソ化じゃだめなん?

神remix届いてしまった 

‘温泉マーク - ね​ん​ね​ん​こ​ろ​り​よ prod.MON/KU (slowstoop Remix)’ is on https://soundcloud.com/user-388724578/nennenkororiyo_remix?si=2f23dc18ea6e4546a76bf63f55a4e14f&utm_source=twitter&utm_medium=post&utm_campaign=social_sharing

本文が自律的な内容をもちつつ、註を読むことによってまったく別な含意が読みこめてくるような註があるとすごい興奮する

これは牽強付会な読みではなくて、パノフスキーはあきらかに多視点表現の発達経路を把握しようと努めている。キュビスムにおいて喧伝された多視点表現が成立するために必要となるのは、世界と視点の関係がときほぐされ、世界を任意の視点から眺めることができるという条件が確立することである。「視点なしに存在する自律した世界」という世界像が確立することによって世界は任意の視点から眺めることができるようになる。パノフスキーの論述は、ルネサンス遠近法から射影幾何学への展開をキュビスムの登場に結びつけようとしている。この展開のなかにいかなる変化が含まれているかがパノフスキーが問題にしていたことだった。

みたいなことをここに書いてもまじでしょうがないんだけど供養する場所もなく...。

本文より註が長いことで著名な(?)パノフスキーの「象徴形式としての遠近法」、同年にエル・リシツキーが書いた論考への考察を註で促していて、かなり急ぎで盛り込んだものとおもわれる。そのことが、彼の遠近法への関心のありかたを物語っていて、「象徴形式としての遠近法」という論考じたいがキュビスム・抽象絵画の登場による発展史観へ精緻な反論として書かれたのだという読解が可能になる。

註いっぱい書いてほしさあるけど、ものによるなやっぱり

nobi の知名度がんばってあげないといけないな

nobi での展示、来週で終わってしまうのが寂しい

主催のメンデルは、ナン・ゴールディンにシンポジウムへの参加を何度か要請していたと主張しているが、ナン・ゴールディンは、自分の名前も入ったプレスリリースについて友人に教えられるまで気付いていなかった。何度も招待して無視されていた不幸な行き違いを想定することはできるけど、どっちかが嘘をついている(というか相手がそう見えるように主張している)とも見えるなぁ...。
https://www.monopol-magazin.de/ausstellung-zu-nan-goldin-gaza-haltung-sorgt-fuer-streit

ナン・ゴールディンが「反ユダヤ主義という言葉は今や武器として使われていて、本来の意味を失っています」と発言するのは、やっぱりドイツの文脈下では問題があるようには感じる。
https://artnewsjapan.com/article/14743

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