エスコバルの要約、"ウィノグラードとフローレスは、少なくとも合理主義の伝統で議論される「問題」ではなく、「ブレイクダウン」について語ることで同じ考えを示す。ブレイクダウンとは、慣習的な世界内存在の様式が中断される瞬間だ。ブレイクダウンが発生すると、我々の慣習的な行為と、その行為を維持する道具の役割が露呈し、そこに新たなデザインが現れ、創造される。" ハイデガーすぎる、と思った(県立図書館に本あるからあした探してくる) Kindle 位置番号3116
ほむほむ
“DICの件でもう一つ言っておくと、「業績悪化による影響」ではないということですね。足元の四半期業績は回復しているし、EBITDAの見通しもここ10年の最高水準になっている。にもかかわらず資本効率の観点から削減対象となっている。ここが重要。”
https://x.com/dkatsura/status/1828456400286294504?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
何か小学校の学級会レベルでしか「議論」ができないのか。ていうか、本当に小学校の学級会みたいなものが、民主主義のモデルとして本気で信じられているみたいな。
学校教育にそういうセンスがなさすぎるのが問題なんだけど。私みたいなおばさんの時代と違って、今は少しはマシなのかな。もっとヒドイのかな。。
星野寄稿へのコメントプラス、今朝見ると執筆者がさらに増えていてまたびっくり。「カルト」規定に疑いがなかったり、「率直に意見を述べて議論をできない社会、それはたしかに民主主義の危機である」と〈民主主義は工場の門前で立ちすくむ〉状況どこ行った?的なものなどを見た。
「傲岸、卑屈、執念――これが階級社会を反映した組織の枠内に必ず起る精神の三位一体である」(埴谷雄高「政治のなかの死」1958年)と、スターリン批判のころからえぐり出されてきた半世紀以上の歴史があるわけで、それを「カルト」性と特徴づけるのはあまりにも平板であるのみならず、〈政治〉にまとわりつくその傾向の普遍性を突き出すよりも、単に外部化と排除しかもたらさない。それこそがまた、絶えず「敵」とのあいだに線を引き続ける、〈政治〉の再生産ではないのか。
https://x.com/solar1964/status/1828346520191807760
これは高橋健太郎とやりあってるところで、高橋氏はどこが合意点とれるか議論を誘っているけど、仲俣氏はそれぞれで考えましょうとなる。「それぞれで考える内省的な自己」みたいなものが露出するのは、まさにこのテキストが文学的な言語として編まれているから。ここで仲俣氏が高橋氏に一線を引くことじたい、このテキストがもちうる政治的効果で、対立とは別な形で対話を避ける形態を模索する。