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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

目次ぱらぱら見てるとやっぱり認知科学方面の議論からはじまるんだな。たしかに状況論とかデザイン界隈の人好きそうな話。

あ、さっきから名前が思い出せなかったけどドレイファスだ

imdkm さんのエスコバル要約でやっぱ読んでおくか〜となっている
いつとは言わない

「コンピュータと認知を理解する」はいい本だし、主張そのものは難解ってほどじゃないんだけど、眠くなります

エスコバルの要約、"ウィノグラードとフローレスは、少なくとも合理主義の伝統で議論される「問題」ではなく、「ブレイクダウン」について語ることで同じ考えを示す。ブレイクダウンとは、慣習的な世界内存在の様式が中断される瞬間だ。ブレイクダウンが発生すると、我々の慣習的な行為と、その行為を維持する道具の役割が露呈し、そこに新たなデザインが現れ、創造される。" ハイデガーすぎる、と思った(県立図書館に本あるからあした探してくる) Kindle 位置番号3116

『多元世界に向けたデザイン』積んだままだけど、何年か前からこの本プッシュしてた先生がずっと「存在論的デザイン」という語を出していて「?」とおもっていたけど、テリー・ウィノグラードら80年代の認知科学者たちがハイデガーに影響を受けていたことが関係あるとかないとか。実際この時期にハイデガーは米認知科学界隈でかなり読まれていて現象学の復興はこのへんから起きているとおもう。

美術館やコレクションというリソースの再利用の提案、世界に眼をむければいくらでも事例はあるはずだけど、それが検討の俎上にも上がっていないところを見ると、議論している人たちが「専門家」ではないことは自明だし、そういう事例を集める気もない。だからもう売り時を探しているということでしかないと判断している。全部売ればいいよ。

この価値共創なんたらの提案のなかに、たとえばアート事業を利用したDICの海外向けブランディングの提案とか一切なく、「移転+縮小 OR 運営停止」の結論しかなかった。価値共創委員会とかいうものふつうに考えて会社のブランディングをするものだとおもうけど、それがアートを利用したブランディングの提案ゼロで縮小か閉鎖かと議論している時点で、会社としては美術館事業にはほぼ興味がなさそうである。

今年のはじめのほうに(たぶん香港のファンドの口出しで)価値共創なんたらを作って、これが将来的な利益設計を考えるという体裁なんだけど、ほぼ美術館をどうするかという議論をしているらしい。で、この価値共創なんたらの構成員はなにかっていうとDICの社外取締役のメンバーが中心で、美術の専門化なんていない。外部の専門家を招くとは書いてあったけ、提言の内容は美術館の縮小・東京への移転、もしくは運用をやめる、というもので、とても専門家が提案する内容とおもえない。経緯を追ってみれば、やっぱり経営陣は売りたいように見える。いつ景気が本格的な後退期にはいるかは不明でそうなればあがりにあがった美術品の価格もどうなるかはわかったものではなく、価値の高いうちにあせって売ろうとしているようにしか見えない。

美術館を潰す・縮小するような経営状況ではない(儲かっている)のに、縮小を議論しているのは、ファンドが主張するように「資本効率が悪い」からなんだろうけど、そんなもの取締役会が無視すればいいだけの話で(香港のファンドの株保有率は8.5%くらい)、それを無視しないというのは、そもそも会社が真面目に運営する気がないから以外にたぶんない。香港のファンドの提言は渡りに舟なんだろう。

ほむほむ

“DICの件でもう一つ言っておくと、「業績悪化による影響」ではないということですね。足元の四半期業績は回復しているし、EBITDAの見通しもここ10年の最高水準になっている。にもかかわらず資本効率の観点から削減対象となっている。ここが重要。”

https://x.com/dkatsura/status/1828456400286294504?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w

何か小学校の学級会レベルでしか「議論」ができないのか。ていうか、本当に小学校の学級会みたいなものが、民主主義のモデルとして本気で信じられているみたいな。

学校教育にそういうセンスがなさすぎるのが問題なんだけど。私みたいなおばさんの時代と違って、今は少しはマシなのかな。もっとヒドイのかな。。

あの記事、星野氏自身が「間違うの怖いです」というだけの告白なんだけど、その「怖い」をつくりあげるのが「カルト」で、「カルトに批判されるから怖い」というわりかし他責的思考になっており、今回の記事への批判も玉石混淆だけど、星野氏本人としては批判をカルトの発言として退けることができる。

他者から閉ざされた思考する自我みたいなもののほうが、カルトよりも無謬的だとおもうけどなぁ。対話の欠如というのが共通で、間違いを発見するプロセスが組み込まれない。星野記事が措定するカルトと自我がただの鏡像なのかもしれんけど。

明治31ねん民法がドイツの民法をモデルにして制定されたときにドイツの夫婦同姓の習慣をとり入れたのが日本の夫婦同姓のはじまり

明治8ねんに日本政府は公式ににほんの伝統では夫婦は別の姓をなのるとゆ内容の布告をしている。ヘー

星野寄稿へのコメントプラス、今朝見ると執筆者がさらに増えていてまたびっくり。「カルト」規定に疑いがなかったり、「率直に意見を述べて議論をできない社会、それはたしかに民主主義の危機である」と〈民主主義は工場の門前で立ちすくむ〉状況どこ行った?的なものなどを見た。

「傲岸、卑屈、執念――これが階級社会を反映した組織の枠内に必ず起る精神の三位一体である」(埴谷雄高「政治のなかの死」1958年)と、スターリン批判のころからえぐり出されてきた半世紀以上の歴史があるわけで、それを「カルト」性と特徴づけるのはあまりにも平板であるのみならず、〈政治〉にまとわりつくその傾向の普遍性を突き出すよりも、単に外部化と排除しかもたらさない。それこそがまた、絶えず「敵」とのあいだに線を引き続ける、〈政治〉の再生産ではないのか。

この文章自体が文学的言語によって編まれたものだから、この記事を称賛する仲俣暁生の発言はこうなる。
https://x.com/solar1964/status/1828346520191807760
これは高橋健太郎とやりあってるところで、高橋氏はどこが合意点とれるか議論を誘っているけど、仲俣氏はそれぞれで考えましょうとなる。「それぞれで考える内省的な自己」みたいなものが露出するのは、まさにこのテキストが文学的な言語として編まれているから。ここで仲俣氏が高橋氏に一線を引くことじたい、このテキストがもちうる政治的効果で、対立とは別な形で対話を避ける形態を模索する。

川村の件、ここまで露骨に「アートは公共財じゃないぞ」を見せつけられて「美術は大事だから守れ」とか言うのアホみたいな気になる。結果から言えば金持ちの道楽に過ぎなかったってことで、「金持ちはアート守る義務がある!」とか主張するの馬鹿らしいから、コレクション全部売却でいいじゃん(あれ全部買えるところあんまりなさそう)。休館前に最後にもう一回は見に行きたいとはおもうけど。

この星野記事そのものが文学的結構によって成立しているのだけど、ここで得られた効果も文学的な効果だったとおもう。まさにこうした「文学的な言語」こそが、「価値観の違う者同士が対話する」ときに必要とされるような中間的言語の開発を妨げているんじゃないかとおもう。

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