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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

星野記事について(もうみんな飽きてるかもだけど)、けっきょくあのエッセー風告白体の文章は、告白において内面(私)を構成すると同時に、他者も作りだしている。というか私が私であるために他者の存在を(差異として)必要としているというか、それが「カルト」と呼ばれている。「私」はカルトではないものとして規定され、カルトは「私」をもたないものとして規定される。対話が成立しないのはカルトが「私」をもたないせいだとされているが、「私」が対話を試みているかどうかは定かではない。「ぼくが社会や政治について言葉にしてきたのは(略)、境界をなくして少しでもマシな状況へと変化させるためであった」という言葉とは裏腹に、どうも星野氏がこれまで主張してきたことは、「価値観の違う者同士が対話すること」なのではなくて、「一人ひとりが自分の中にある依存性を見つめる」という極めて自己反省的なもので、これで「境界をなく」そうとするのはエヴァンゲリオンかって話である。こういう書きぶりを見ると、「社会派」を期待されていた当初から、文学的言語(=孤立した内面による孤立的な発話)以外に処方箋をもっていなかったように思う。こういう「内面」こそが、内面を持たないものとしての「カルト」という存在をレトリカルに構成してしまう。

畜種分散でダチョウのこと調べてたらけっこう美容効果あるぞで美容業界に参入するみたいな商品展開の仕方、割と好きかもしれない

吉野家が化粧品事業に参入 飲食事業で使用するダチョウのオイルから商品開発 - WWDJAPAN
https://www.wwdjapan.com/articles/1897728

ブロックしたけど、そもそも人気にならないでほしい。

スレッズに位置情報共有していないのに「近くで人気です」でエロ垢がおすすめされてるのなんなん。それなりに近いし。

@energyball38 だからなんなのでしょうか...?主張が不明すぎてリプライされても困っております。

@energyball38

ストローマン(英: straw man)は、議論において、相手の考え・意見を歪めて引用し、その歪められた主張に対してさらに反論するという間違っている論法のこと、あるいはその歪められた架空の主張そのものを指す。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3

神宮外苑の問題が藁人形論法であるかどうかの評価は関心ないためここではしませんが、この神宮外苑の問題と星野記事についての私の主張を関連づける行為を、藁人形だと呼んでいます。この二つの事象には表面的類似性しかなく、これを関連づけるあなたの行為は「藁人形を構成する人がいる」というまさに擬似的対象を構成して、その藁人形を批判する行為です。

@energyball38 リプライの意図が不明ですが、まさにそういった表面的な類似をもって叩けそうな対象を構成する行為を「藁人形」と呼んでおります。

星野記事における「内面」ってまさに文章の効果によって現出しているもので、それがクリシェに取り囲まれて、クリシェを懐疑する自我という典型によって表現されている。こういうの想起してしまって、柄谷が言うような意味で、文学という制度が創出する内面じゃんってなっちゃったんだよな。

SNSにおける身内受けで回る言語空間に、戦略的に飲み込みづらい言葉を配置していくというのなら意義があるけど(主張としてはそういう内容)、星野記事はそれ自体「SNSにおける身内受けで回る言語」に染まっているような言葉選びで、事実として持った効果もおおむねそうだとおもう。
文学の言葉を「究極の個人語」と書いているけど、星野氏の文章じたい半ば以上クリシェで構築されている以上間に受けようという気にはあんまりならない。クリシェを利用しつつそれを裏返していくような方法で書いているようにも見えない。小説では違うのかもしれないけど(未読)、このためだけに読もうかという気にはならないなぁ...。

私は今回の星野の記事、愚劣だから内容にコメントするのも嫌だったんだけど、「小説という形かそれに準ずる言語でないと、言葉を出すことをやましく感じるようになっている」というように、実際に「お前マジョリティだろ」とマイノリティから突き上げを食らったかどうかとは別に、突き上げを食らったような気分になって「疾しい」気分になっていた、というのがポイントで、

そこから「作家の言葉」に退避してるわけだが、その「作家の言葉」の言説空間こそを吟味しろや、と思ったかな。SNS消費vs作家の言葉 の図式がすでに臭い。

居場所と小説執筆が対比されているが、人が居場所をつくることに逆らう、それが作家の言葉っていうイデオロギーだと思う。そんなくっきり分かれるわけねえだろ、と疑わしい。でもSNSのクリエイター気分の人、こんなのにころっとやられる。私はこの種の「自律性を求めた人間が作家神話の再生産をやってミメーシスしまくる」ことの方に問題性を感じている

クリエイターって「自分が奪われたくない!」かつ「自分はすぐにキャパオーバーしてハングアップするんだ!」が多い。その結果、驚くほど似たような擬制に足を取られる

川村記念美術館の署名、「私の曾祖父が1930年に大原美術館を作った当初、」から始まる賛同投稿あるな
https://chng.it/sSBQz8HwZh

メンヘラとか最近の単語を見ると思い出すのが。
その昔、水道橋、三崎町界隈は底辺エロ出版社の聖地で。社名も「桃園書房」というまさにそこ、という版元さんが出していたのが
『月刊へら』
よくこれだけで月刊誌出せてたなあ、と当時びっくりした。
「釣り」でもなく「へら」?たしかに人気の釣りだったらしいけど、それだけで雑誌にできるんだ、と。

これ、オアシスの株式保有率8.5%くらいだから取締役会が拒否すればいい話というのはそうなんだけど、スクラム組まれているか現経営陣が手放したいと思っているかどっちかなはずで、後者なんじゃないかと思っている。
https://kabumatome.doorblog.jp/archives/66023627.html

10年前にニューマン売ったとき、あれは美術館運営費用にでもするのかとおもっていたけど、一事業でしかないなら別に通常事業に補填していいわけで(美術館事業は経営上の独立がない)、そのままにしていたってことは、「いつでも売れるようにしておきたい」という事情以外考えづらいんだよな。当時から事情はわかっていたわけだから、財団法人化は当然議論されたうえでやらないという選択肢が取られたはずだとおもう。コレクションの経済的価値がわかったうえで、経営上の一種の保険としているんじゃないか。経営陣はたぶん美術に興味がない。事業の一部なのに、社外取締役にも専門家がいない、ほぼ非専門家で組織された価値共創なんたらという組織で今後の美術館運営について検討するというのは、美術に興味がないことの現れ。

朝日記事に対する批判で異常だなと感じるのは、「正義の暴走」とはどこにも書いてないのに、あたかも星野氏がそのように主張しているかのように批判していること。
ムカつくなら批判すればいいけど藁人形でしょ。星野記事自体が藁人形化してんじゃんってのはそうだし、自分も記事間違ってるとおもうけど、言ってもないことで批判してるのさすがにおかしいとおもうよ。

Fediverse でみんな意見が同じ方向に流れるの嫌いだわ。自分も人のこと言えんところあるけど。

川村記念美術館の件で「やっぱり美術館運営はお金かかって効率悪いから駄目なんだ...」みたいなトンチンカンな意見でてくるのが嫌だ。東浩紀が「だから税金か富裕層に依存するしかない」って間違った誘導してたのもおなじく。他の私立美術館がわりと財団法人化しているので、川村みたいに上場企業が直接美術館運営しているなんてけっこう特殊事例なのでは?なところを、一般化していまどき美術館は厳しいとかな論調がでるのが嫌だな。

川村記念美術館に関するいろいろを斜め読みすると「企業が運営する美術館だからどうこうというより、美術館の運営を企業から切り離していなかったのが響いている」みたいな話で、むずかしいな。

ポーラとかブリジストン(アーティゾン)とかが美術館経営上手く行くのは、むしろ財団が株式握っていて配当金が資金になっているからか。川村はDICの会社経営の一部として美術館やっていて、単なる事業だから作品売却も容易だし事業畳むのも取締役会の一存でできる。そりゃお金困ったらニューマン売るわ。

川村記念美術館、マジでDIC本体の経営のなかでやっている意味がわからん。香港のファンドが資本効率をダシに脇の甘い企業のコレクションを狙っているようにしか見えない。

佐倉にある美術館を東京に移転させるって悪いアイデアではないようには思えるけど、実際問題としてそんな箱があれば価値を生みだせるのか?っていうとかなり疑問で、資料読んだ感じではやはり「収益性が悪い」という結論ありきという印象で、東京に移転するか美術館の廃止か、という結論に到達するためのアレコレがあるという感じを受けてしまう。「価値共創委員会」(社外取締役x4)にはコレクション売却がいちばん魅力的な選択肢に映っているだろうな。

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