SNSにおける身内受けで回る言語空間に、戦略的に飲み込みづらい言葉を配置していくというのなら意義があるけど(主張としてはそういう内容)、星野記事はそれ自体「SNSにおける身内受けで回る言語」に染まっているような言葉選びで、事実として持った効果もおおむねそうだとおもう。
文学の言葉を「究極の個人語」と書いているけど、星野氏の文章じたい半ば以上クリシェで構築されている以上間に受けようという気にはあんまりならない。クリシェを利用しつつそれを裏返していくような方法で書いているようにも見えない。小説では違うのかもしれないけど(未読)、このためだけに読もうかという気にはならないなぁ...。
文学の言葉を「究極の個人語」と書いているけど、星野氏の文章じたい半ば以上クリシェで構築されている以上間に受けようという気にはあんまりならない。クリシェを利用しつつそれを裏返していくような方法で書いているようにも見えない。小説では違うのかもしれないけど(未読)、このためだけに読もうかという気にはならないなぁ...。
星野記事における「内面」ってまさに文章の効果によって現出しているもので、それがクリシェに取り囲まれて、クリシェを懐疑する自我という典型によって表現されている。こういうの想起してしまって、柄谷が言うような意味で、文学という制度が創出する内面じゃんってなっちゃったんだよな。
星野記事について(もうみんな飽きてるかもだけど)、けっきょくあのエッセー風告白体の文章は、告白において内面(私)を構成すると同時に、他者も作りだしている。というか私が私であるために他者の存在を(差異として)必要としているというか、それが「カルト」と呼ばれている。「私」はカルトではないものとして規定され、カルトは「私」をもたないものとして規定される。対話が成立しないのはカルトが「私」をもたないせいだとされているが、「私」が対話を試みているかどうかは定かではない。「ぼくが社会や政治について言葉にしてきたのは(略)、境界をなくして少しでもマシな状況へと変化させるためであった」という言葉とは裏腹に、どうも星野氏がこれまで主張してきたことは、「価値観の違う者同士が対話すること」なのではなくて、「一人ひとりが自分の中にある依存性を見つめる」という極めて自己反省的なもので、これで「境界をなく」そうとするのはエヴァンゲリオンかって話である。こういう書きぶりを見ると、「社会派」を期待されていた当初から、文学的言語(=孤立した内面による孤立的な発話)以外に処方箋をもっていなかったように思う。こういう「内面」こそが、内面を持たないものとしての「カルト」という存在をレトリカルに構成してしまう。
この星野記事そのものが文学的結構によって成立しているのだけど、ここで得られた効果も文学的な効果だったとおもう。まさにこうした「文学的な言語」こそが、「価値観の違う者同士が対話する」ときに必要とされるような中間的言語の開発を妨げているんじゃないかとおもう。
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この文章自体が文学的言語によって編まれたものだから、この記事を称賛する仲俣暁生の発言はこうなる。
https://x.com/solar1964/status/1828346520191807760
これは高橋健太郎とやりあってるところで、高橋氏はどこが合意点とれるか議論を誘っているけど、仲俣氏はそれぞれで考えましょうとなる。「それぞれで考える内省的な自己」みたいなものが露出するのは、まさにこのテキストが文学的な言語として編まれているから。ここで仲俣氏が高橋氏に一線を引くことじたい、このテキストがもちうる政治的効果で、対立とは別な形で対話を避ける形態を模索する。
https://x.com/solar1964/status/1828346520191807760
これは高橋健太郎とやりあってるところで、高橋氏はどこが合意点とれるか議論を誘っているけど、仲俣氏はそれぞれで考えましょうとなる。「それぞれで考える内省的な自己」みたいなものが露出するのは、まさにこのテキストが文学的な言語として編まれているから。ここで仲俣氏が高橋氏に一線を引くことじたい、このテキストがもちうる政治的効果で、対立とは別な形で対話を避ける形態を模索する。