https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/695abad1dee0ed9c9ba0f64f27f4e69f8a810759
日清日露戦争こそ植民地獲得戦争なんだけど、安倍談話はその日露戦争について「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」とかギョッとすること言っていることにはノーコメントで「村山談話より踏み込んでいる」って言えてしまうのは、バカにしていればいい問題のようにはあまりおもえない。というか自分もこういう歴史観が間違っているとはっきり理解できるようになったのは恥ずかしながら最近だし...。
植民地朝鮮と〈近代の超克〉
戦時期帝国日本の思想史的一断面(仮)
閔東曄:著
https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-15139-2.html
申し訳ないけど、こういうの見ると、「分からないワケではないし全否定するつもりもないが、この前の戦争で『市民が戦争に巻き込まれるとは、どういうことなのか―。』とするのであれば、1944年ではなく、朝鮮半島でも良いし、中国でも良いし、フィリピンでも良いし、インドネシアでも良いし、まあどこでも良いが、日本本土以外が重要なんじゃないのか。そういうとこの声を紹介するべきでは?」という思いは非常に強い。
本章で言う「交渉(negotiation)」という概念は、二重の意味を負わされている。まず第一に、交渉とは、文字通り、商品としてのモノの生産・流通・消費のそれぞれの場面での、売買における(価格によって表される)価値評価をめぐる交渉であり、それは需要と供給という市場メカニズムによって支配される。もし価値評価について合意に達しなければ、その交渉は決裂し、売買は成立しない。第二に、(略)交渉とは、あるもの(モノ、概念、イメージ、表象、ポジションなど)をどのように意味づけ、それを他とどのように節合するのかをめぐっての、複数の意味生産の実践のあいだのせめぎあいのプロセスを意味する。後者の場合、それは閉じた市場の需給バランスに従って展開するわけではなく、しかも交渉は終結することがない。
仮に非西洋の器物が西洋によって芸術品の地位に格上げされたとしても、それは、その器物を生産した人物を芸術家として認知し、その制作プロセスを芸術作品の制作として認知することを必ずしも意味しなかったのである。プライス(Price 1989)によれば、「未開芸術」の収集家にとっては、作者が匿名であること、つまり、作者が芸術家と自認(自任)していないことが、その作品の価値を増す。また彼女は、収集家が自らの作業を「便器に対するデュシャンの作業」に類したものとみなしているとも指摘する。要するに、非西洋の制作者の意図などどうでもよく、芸術として発見する西洋の創造的な眼だけが重要だとされてきたのである。
まるっきり柳宗悦だった。
モダニズム芸術が、都合のよいアカデミズム批判をするために「非西洋」を流用したのとまったく同じスタイルで、ポストモダニズムも、「非西洋芸術」を都合のよい近代批判のために流用する。つまり、近代芸術が自明視する前提そのものに対するラディカルな挑戦となりうる差異を毒抜きして、自分に都合よく消化=理解できる差異に加工してつまみ食いしているのである。そもそも一九八四年にモダニスト芸術家による流用を正当化する展覧会が開催されるということ自体が、たとえポストモダニスト的批判を呼び起こしたとしても、二十世紀初頭と世紀末とのあいだに断絶よりは連続性のほうが多いことを窺わせるに充分である。