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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

人類学と芸術の分業関係が端的にあらわれているのが博物館と美術館というシステム。これらは芸術的対象を見るのと文化的器物を見るのとで、鑑賞の態度が異なっている。こういう意味で言えば、デュシャンの便器なんかはこのシステム間の移行(文化的器物から芸術へ、これがアプロプリエーションとしてクリフォードが考えるもの)という事象をよく物語っている。

タイムラインに文化盗用の話流れてきたけど、ジェイムズ・クリフォード的には、人類学による「文化(的な器物)」の収集と芸術・美術館による「芸術(作品)」の認定の分業関係を前提としたうえで、文化的器物を芸術として流用することだとおもう。文化にはコンテクストがあるけど芸術は普遍的であるから、そういう借用が可能になる(クリフォードの言う人類学と芸術の分業とはそういう関係)。

プリミティヴィズムとジャポニスムの関係、ちゃんと問われていないはずなんだよな。

本章は、大きくわけて三つの部分から構成されている。第一に、西洋近代で成立した「芸術」をめぐる言説が、どのようにして自らの普遍性をよそおい、非西洋世界の生み出したモノをどのような差異として「流用(appropriation)」してきたのかについて検討し、さらに、ポストモダンとよばれる歴史的状況のなかで、その一方向的なプロセスがどのように形を変えつつも連続しているかについて考察する。第二に、グアテマラのインディヘナの画家によって絵画が生産され、流通し、消費されるプロセスについて、上記の二つの村の画家たちの仕事に即し、私自身のフィールドワークにもとづいて概観する。そこでの焦点は、画家たちがどのような条件の下でどのような絵画を生産し、それがどのような「意味生産の実践(signifying practice)」なのかという点である。第三に、非西洋の「コンタクト・ゾーン(contact zone)」において西洋の技法を用いて制作される絵画が、どのような意味で「交渉」の場となっているのか、そこで何が「交渉」されているのかについて、オーストラリア、バリ、ザイール(現コンゴ民主共和国)などの事例をも視野に入れて論じ、それぞれの事例に特有の論点とともに、共通の問題点が浮彫にされる。

「第七章 芸術/文化をめぐる交渉」

本書を読もうとおもったのはここを読みたかったからなんだけど、理由は上記の問題設定が、浮世絵もあきらかにこの視点から読解できるはずなのと、この appropriation の問題がジェイムズ・クリフォードの芸術/文化の移行モデルをもとにしているから。「コンタクト・ゾーン」にも関心があった。

MOMAプリミティヴィスム展を巡るクリフォードvsルービンの論争も記述されていて、あらためて興味深い。

松岡の「民主主義は終わる」を「予言」としちゃう時点でゴミ記事だし、民主主義と「民主主義陣営」による戦争は関係ないでしょ(関係あるのかもしれんけど関係あるなら関係性を明確にしてから書いてくれ)。この記事を朝日の人間が「日本や世界が同じような過ちを繰り返さないと断言できるでしょうか」とか宣うのも、大手メディアの当事者がめちゃくちゃ他人事でなるようになるくらいにしか思っていなそうなのとか、なんなんですかね。

この記事の感想(?)で↓というのがあったんだけど、日本人は10人以下になるべきだってコト?

ちょっとした10人程度の友人の会でさえ、難問で意見がまとまる事は少ない ましてや1億人以上で「民意」と言っても訳が分からん

やはり日本人には「十七条の憲法」が似合う

なんじゃこりゃというか、いつまで「持たざる国」みたいな話するつもりなんだ、というのもだし、「民主主義と権威主義が交錯する時代」と言ったかとおもえば「米国は民主主義対権威主義の対立構図を描こうと躍起だが」と、書き手の主張がまったくわからない

「民主主義は終わる」松岡洋右は予言した 歴史が相似形を描く世界で:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASS870HRYS87DIFI003M.html

踊る afford に見る afford 、同じ afford なら踊らにゃ損損

同じ環境が踊ることと見ることを同時にアフォードしている場合、前者を選択するほうがより合理的で最適な行動であるという意味のアフォーダンスにまつわることわざ

これ、そうなの?柳が当時のインテリのなかで例外的に植民地主義に明確に反対していたのはそうだけど、現状の韓国・北朝鮮でどのように扱われているのかよくわからないな。まあ、福沢諭吉と渋沢栄一よりは良く受け取られそうではある。

柳宗悦を一万円札の肖像画に採用していれば、それだけで韓国と北朝鮮の対日感情が良い方向に向いたはず。 https://x.com/kimarx/status/1822881387487342617

いろいろ勉強してみて、やっぱりそうだなと最近思っていることは、ある存在が政治的主体としての能力を発揮しうるのは、それが疎外された存在であることによってであるとおもう。疎外された存在が集団性を獲得するのであれば、それは強固な政治的基盤になりうる。左派という自認のなかにはこういう政治的基盤になる要素が一切なくて、共感なり連帯なりを生むことができない。

20代から30ちょっとくらいまで歯を大事にしてこなかったのはまじで後悔している

連帯の根拠となるものが「左翼」アイデンティティだとまったく連帯の根拠になってないんだよな。

極中道ってなんやとおもったら、エクストリームセンターという政治的立場があるのか

しかし、文化的に植民地化された状態とは、まさにそのような言説の内部でしか思考・表現できないことを言うのではないだろうか。つまり、自らが生きている社会的現実に正しく向き合うことができず、世界の中心と目される先進国というモデルとの同一性と差異という問題だけに関心を集中しつづけ、「自分たちの文化がモデルにどれだけ近づきえているか」と「自分たちの文化がモデルからどれだけ離れた独自のものたりえているか」という両極のあいだを振り子のように往復することしかできないことが、文化的に植民地化された状態なのである。別の言い方をすれば、文化的に植民地化された状態においては、めざすべきモデルの受容を強制され、同時にそのモデルに到達することを妨げられ、モデルとの差異を自分たちの側の遅滞・劣等性として理解するようになっているのである。

池田満寿夫問題と向きあうべきときな気がしてきた

>異種混淆性の議論そのものは、けっして近年になって、グローバリゼーションの下で氾濫する商品化されたシンクレティズムや、ポストモダニズムに影響された文化理論とともに現れてきたものではない。「メスティサヘ」や「混血の文化」というメタファーにくり返し訴えてきたラテンアメリカのナショナリズムにとっては、使い古されたと言うことさえできる議論なのである。(略)ショーハットとスタム(Shohat and Stam 1994)が正しく指摘しているように、「異種混淆性は、権力関係を含んだ非対称的なもの」であり、「異種混淆性それ自体を賛美することは、もしそれが歴史的なヘゲモニーの問題と節合されないのであれば、植民地暴力の既成事実を聖化してしまう危険がある」。ブラジル(そしてラテンアメリカ)では、まさにそのようなかたちで、異種混淆性の美学が、あらゆるものを非政治化する作用をはたしてきたのである。

ネオリベラリズムの伸長と踵を接するように、「ラテンアメリカがポストモダニティの先鞭をつけたのは、概念がヨーロッパや北米のコンテクストで現れるより前である」という奇妙な議論がなされるようになってきた。それまで近代化にとっての障害あるいは跛行的な近代化の現れとみなされてきたラテンアメリカ社会の異種混淆性が、「先取りのポストモダニズム」として喧伝されるという事態である。

どこの日本のことだ

ランニングサボるようになって安静時心拍数めちゃ上がってるな

「一は全、全は一」って王蟲も言ってたな。

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