本章は、大きくわけて三つの部分から構成されている。第一に、西洋近代で成立した「芸術」をめぐる言説が、どのようにして自らの普遍性をよそおい、非西洋世界の生み出したモノをどのような差異として「流用(appropriation)」してきたのかについて検討し、さらに、ポストモダンとよばれる歴史的状況のなかで、その一方向的なプロセスがどのように形を変えつつも連続しているかについて考察する。第二に、グアテマラのインディヘナの画家によって絵画が生産され、流通し、消費されるプロセスについて、上記の二つの村の画家たちの仕事に即し、私自身のフィールドワークにもとづいて概観する。そこでの焦点は、画家たちがどのような条件の下でどのような絵画を生産し、それがどのような「意味生産の実践(signifying practice)」なのかという点である。第三に、非西洋の「コンタクト・ゾーン(contact zone)」において西洋の技法を用いて制作される絵画が、どのような意味で「交渉」の場となっているのか、そこで何が「交渉」されているのかについて、オーストラリア、バリ、ザイール(現コンゴ民主共和国)などの事例をも視野に入れて論じ、それぞれの事例に特有の論点とともに、共通の問題点が浮彫にされる。
「第七章 芸術/文化をめぐる交渉」
本書を読もうとおもったのはここを読みたかったからなんだけど、理由は上記の問題設定が、浮世絵もあきらかにこの視点から読解できるはずなのと、この appropriation の問題がジェイムズ・クリフォードの芸術/文化の移行モデルをもとにしているから。「コンタクト・ゾーン」にも関心があった。
MOMAプリミティヴィスム展を巡るクリフォードvsルービンの論争も記述されていて、あらためて興味深い。
この記事の感想(?)で↓というのがあったんだけど、日本人は10人以下になるべきだってコト?
ちょっとした10人程度の友人の会でさえ、難問で意見がまとまる事は少ない ましてや1億人以上で「民意」と言っても訳が分からん
やはり日本人には「十七条の憲法」が似合う
「民主主義は終わる」松岡洋右は予言した 歴史が相似形を描く世界で:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASS870HRYS87DIFI003M.html
踊る afford に見る afford 、同じ afford なら踊らにゃ損損
同じ環境が踊ることと見ることを同時にアフォードしている場合、前者を選択するほうがより合理的で最適な行動であるという意味のアフォーダンスにまつわることわざ
これ、そうなの?柳が当時のインテリのなかで例外的に植民地主義に明確に反対していたのはそうだけど、現状の韓国・北朝鮮でどのように扱われているのかよくわからないな。まあ、福沢諭吉と渋沢栄一よりは良く受け取られそうではある。
柳宗悦を一万円札の肖像画に採用していれば、それだけで韓国と北朝鮮の対日感情が良い方向に向いたはず。 https://x.com/kimarx/status/1822881387487342617
しかし、文化的に植民地化された状態とは、まさにそのような言説の内部でしか思考・表現できないことを言うのではないだろうか。つまり、自らが生きている社会的現実に正しく向き合うことができず、世界の中心と目される先進国というモデルとの同一性と差異という問題だけに関心を集中しつづけ、「自分たちの文化がモデルにどれだけ近づきえているか」と「自分たちの文化がモデルからどれだけ離れた独自のものたりえているか」という両極のあいだを振り子のように往復することしかできないことが、文化的に植民地化された状態なのである。別の言い方をすれば、文化的に植民地化された状態においては、めざすべきモデルの受容を強制され、同時にそのモデルに到達することを妨げられ、モデルとの差異を自分たちの側の遅滞・劣等性として理解するようになっているのである。
ネオリベラリズムの伸長と踵を接するように、「ラテンアメリカがポストモダニティの先鞭をつけたのは、概念がヨーロッパや北米のコンテクストで現れるより前である」という奇妙な議論がなされるようになってきた。それまで近代化にとっての障害あるいは跛行的な近代化の現れとみなされてきたラテンアメリカ社会の異種混淆性が、「先取りのポストモダニズム」として喧伝されるという事態である。
どこの日本のことだ