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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

@pokarim 「暗黙知」ということになるとおもうのですが、きっとそれだと解凍になっていないということですよね。しかし、身体は典型的なブラックボックスですが、身体についてのシステムイメージがなくても歩くことができ、この領域をマイケル・ポランニーは「暗黙知」と呼んでいます。

元記事はノーマンが使う用法での「メンタルモデル」となっているから変だとおもいますが、他方でおそらく心理学方面、例えばピアジェなどの「内的モデル」とか「操作モデル」をメンタルモデルと同一視するなら、暗黙知を支配するのはメンタルモデルだ、というややこしい見解は可能になります(ややこしいのは誰の定義による「メンタルモデル」かという語彙の用法の混乱に起因していますが...)。

@pokarim 受けとりようではありますが、機械工業が発達すればするほど、ある機械に占めるブラックボックスの比率は上がるとおもいます。

システムイメージとメンタルモデル、みたいなノーマンの利用者の利用のモデル化も、利用者をかなり意識的で理解してモノを使う存在だと見做しているけど、たぶんそんなことはぜんぜんなくて、モノの利用はつねに暗黙知による、といわれたほうがスッキリする。キーボードの入力なんてどういう機序で画面に文字を打っているかなんて考えていない。

この「デザイン以前のデザイン」についてアレグザンダーは「デザインの無意識」だと把握している。この「デザインの無意識」というのが、ほとんど物質的関係によって成立するようなモノのデザインみたいなもので、実際にアレグザンダーの説明に、ある金属製の板を水平なものにするには、もうひとつ水平な金属板とすりあわせることによってである、というような説明の仕方をする。
ノーマンの考えるような「デザイナーの概念モデル」とか「システムイメージ」とか「メンタルモデル」というのは、こういうような無意識的・物質的性格はない。むしろ、「意識的におこなわれたデザイン」のプロセスについてのモデル化で、アレグザンダー的にはそれはデザインの最終段階にあたる。

「自己組織的」というのは「形の合成に関するノート」時点でのアレグザンダーの意見ではないけど、アレグザンダーはこの論考のすぐあとくらいから、「デザイン以前のデザイン」に着目することになるはず。

「やかん」ってちょうどアレグザンダーが「形の合成に関するノート」で例に出していたはずで、デザイン以前のデザインなんだよな。近代の分業体制のなかで確立した、製造ラインに設計図を描くという意味での「デザイン」ではなく、モノどうしの関係性で自己組織的にでてくるモノである、という。

@NaokiTsuchiya はい、やかんの説明にシステムイメージもメンタルモデルも不要だとおもいます。

やかんは、たんに「取っ手のついて容器状のモノ」であるわけで、古くは縄文土器のような形態のモノがあり、それに取っ手がついていると便利だろう、というモノであるわけですよ。あとは、取っ手を握って水に満たされた容器がどれくらい重さに耐性があるかや、火力への耐性などで、形態および素材を決定できる。つまりここにあるのはモノ同士の関係性で、モノと独立した「メンタルモデル」というものを説明上必要としているわけではないとおもっています。

@NaokiTsuchiya
うーん、というより、ノーマンが述べている「システムイメージ」というものは、デザインされた機械の内部がブラックボックス化していて、内部動作の仕組みがわからないから、その動作機序を説明するためのものとして「システムイメージ」がある。「デザイナーの持つ概念モデル」をユーザーに説明したものが「システムイメージ」になる。

ただ、こういったものが必要なのは、あくまでブラックボックス性を抱える機械についてのことで、UIというものが必要になるのもおなじ理由ですが、こういったブラックボックスシステムでは「このレバーを下げると、内部状態がこのようになり、あれこれこうして状態Bに遷移します」という「内部状態」の説明をする必要がある。

ヤカンなんかは、こういったブラックボックス性がいっさいないわけだから、「システムイメージ」をユーザーがもつわけではない、とおもうのです。ノーマンのいう「システムイメージ」は、ブラックボックスシステムの内部についてユーザーが想像するもの、なわけだから、「ブラックボックスではない道具」についての「システムイメージ」などないとおもいます。

ヤカンは取っ手のついた単純な容器で、その中に水を入れて火にかける、この一連の処理に一切ブラックボックスはなく、状態は開示されている。これが、レンジとかになると話が変わってくるのです。「隱れた状態」(モード)をもった機械の最たるものがコンピュータでもあります。

やっぱりこの記事を読むといちいち話が逆転している感じがするな。
https://u-site.jp/lecture/mental-model-social-acceptability

記事中のやかんの話とか顕著だけど、「システムイメージはユーザサイドで自発的に生成され、メンタルモデルの構築に関わってきたものと考えられる」みたいなのも、そもそも現代的なブラックボックス化しているシステムじゃないんだから、「システムのメンタルモデル」なんてあきらかに不要なのに、それが存在するとしたがる。
おかしな理屈なんだけど、この手の現代のシステム的な語彙がそうでないものに適用される現象はつねに誤った普遍化をともなって、本来の語の適用範囲を不必要に拡大している。

@NaokiTsuchiya はい、やかんの説明にシステムイメージもメンタルモデルも不要だとおもいます。

やかんは、たんに「取っ手のついて容器状のモノ」であるわけで、古くは縄文土器のような形態のモノがあり、それに取っ手がついていると便利だろう、というモノであるわけですよ。あとは、取っ手を握って水に満たされた容器がどれくらい重さに耐性があるかや、火力への耐性などで、形態および素材を決定できる。つまりここにあるのはモノ同士の関係性で、モノと独立した「メンタルモデル」というものを説明上必要としているわけではないとおもっています。

@NaokiTsuchiya
うーん、というより、ノーマンが述べている「システムイメージ」というものは、デザインされた機械の内部がブラックボックス化していて、内部動作の仕組みがわからないから、その動作機序を説明するためのものとして「システムイメージ」がある。「デザイナーの持つ概念モデル」をユーザーに説明したものが「システムイメージ」になる。

ただ、こういったものが必要なのは、あくまでブラックボックス性を抱える機械についてのことで、UIというものが必要になるのもおなじ理由ですが、こういったブラックボックスシステムでは「このレバーを下げると、内部状態がこのようになり、あれこれこうして状態Bに遷移します」という「内部状態」の説明をする必要がある。

ヤカンなんかは、こういったブラックボックス性がいっさいないわけだから、「システムイメージ」をユーザーがもつわけではない、とおもうのです。ノーマンのいう「システムイメージ」は、ブラックボックスシステムの内部についてユーザーが想像するもの、なわけだから、「ブラックボックスではない道具」についての「システムイメージ」などないとおもいます。

ヤカンは取っ手のついた単純な容器で、その中に水を入れて火にかける、この一連の処理に一切ブラックボックスはなく、状態は開示されている。これが、レンジとかになると話が変わってくるのです。「隱れた状態」(モード)をもった機械の最たるものがコンピュータでもあります。

小泉のクソ野郎が当時「私は頑張った人間が報われる社会を作りたい」とかナル全開で語るのを一部マスコミが持ち上げてたもんだが、「頑張ったかどうか」って結局結果(資本主義社会では積み上げた金の高さ)で判断されるしかないので、アレって結局、「儲けた奴に応分の負担を求めない」ってだけの話だったんだよな。こんなのあのクソがイキってた20年前からわかり切ってたことだし当時から私はそう批判してきたワケではあるが、それにしても20年経って強烈な答え合わせを見せられている気分

この記事のノーマンの図、デザイナーの概念モデルとシステムイメージとユーザーの概念モデルの三つがあるとしている。デザイナーの概念モデルというのはようするに設計図のなかで使われるような情報になるけど、これが表現されたシステムイメージを通じてユーザーがシステムを概念的に理解する、というのはシステムをブラックボックスのなかに閉じているからメカニズムについての想像が必要となるという話でしかない。システムが全部開示されていれば、「システムイメージ」を通じてシステムを理解しなければならないような間接性からは解放される。自転車はそうだ。

「サロゲートキーをシステム界面に露出させてはいけない」はい

分業じたいは家内制手工業にもあるけど、ビジネス過程が大きくなってくると工場制手工業になって、分業はより機械的な側面が強くなる。生産の「管理」もここで発生するんじゃないかという気がしている。
浮世絵の生産なんかを考えると、版木というモノのなかに「見当」とかのマークがあったり、版下を転写して彫るとかの一種の機械的な過程はあり、直接的にモノのなかに情報が埋め込まれている。
これが、工場制手工業となると資本家の目に見えるように帳簿組織(モノから切り離され外部化された情報構造)が発達するのではないか、というのは思い付きだけど、調べてみたい。

家内制手工業から工場制手工業の展開、けっこう重要だな。資本が直接管理ではなくなり、雇用関係に変化するということか。それまでは「家」での生産だから雇用関係にないということにもなる。

やかんなど、システムイメージのような間接的なものがあって利用法を理解しているのではなく、もっと直接的にイメージのなかに配置されたオブジェクト空間のなかで行動していると言えばいい。そしておそらくこのイメージ上のオブジェクトこそがメンタルモデルと呼ばれるべきだ。

やっぱりこの記事を読むといちいち話が逆転している感じがするな。
https://u-site.jp/lecture/mental-model-social-acceptability

記事中のやかんの話とか顕著だけど、「システムイメージはユーザサイドで自発的に生成され、メンタルモデルの構築に関わってきたものと考えられる」みたいなのも、そもそも現代的なブラックボックス化しているシステムじゃないんだから、「システムのメンタルモデル」なんてあきらかに不要なのに、それが存在するとしたがる。
おかしな理屈なんだけど、この手の現代のシステム的な語彙がそうでないものに適用される現象はつねに誤った普遍化をともなって、本来の語の適用範囲を不必要に拡大している。

https://gihyo.jp/magazine/SD/archive/2024/202403
メイン記事はどうでもいいけど、「たとえば「ドラ娘システム」をアプデしてみよう~テックコミュニティとジェンダー~」という題のエッセイ(?)気になるな...。

モノってなにかしら空間上での排他性をもつとされるけど、付箋UIとリストUIの違いはたぶんリストUIでは一次元の操作が可能だけど付箋UIでは三次元の移動が可能になっていることになるのか。

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