全話読んで、たいへん素晴らしい連作だった
第5話 地方芸術祭 作品制作報告
地方芸術祭とネット怪異譚/酒井貴史 - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16817330657174166773/episodes/16817330657787956756
第5話 地方芸術祭 作品制作報告
地方芸術祭とネット怪異譚/酒井貴史 - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16817330657174166773/episodes/16817330657787956756
笑
いい年の大人が、粗大ゴミみたいな現代アートとやらを近所の神社や休耕田や校庭に設置しているのを子供達は見る。
大人とは毎日働くものではなかったのか?
あのよそ者達はどうやってメシを食っているのか? https://kakuyomu.jp/works/16817330657174166773/episodes/16817330657333464266
第2話、なかなか力作だ
この「都市伝説村」と「地方芸術祭」の見立ては imdkm さんが地域アートとコレクティブ的活動をコインの裏表と見立てるのと近い気がする。
第2話 地方芸術祭と都市伝説村
地方芸術祭とネット怪異譚/酒井貴史 - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16817330657174166773/episodes/16817330657261223864
この「都市伝説村」と「地方芸術祭」の見立ては imdkm さんが地域アートとコレクティブ的活動をコインの裏表と見立てるのと近い気がする。
第2話 地方芸術祭と都市伝説村
地方芸術祭とネット怪異譚/酒井貴史 - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16817330657174166773/episodes/16817330657261223864
第1話 地方芸術祭とネット怪異譚
地方芸術祭とネット怪異譚/酒井貴史 - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16817330657174166773/episodes/16817330657174702464
地方芸術祭とネット怪異譚/酒井貴史 - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16817330657174166773/episodes/16817330657174702464
国立奥多摩美術館の人たち、なんの権利で「国立」と名乗ってるのか?とおもうけど勝手に名乗っているだけで、それが10年も続いてしまうと、「なぜ勝手に国立を名乗ってはいけなかったのか?」という問いに変化してしまう。「国が運営していないと国立と名乗ってはいけないのでは...」みたいなものが制度の内面化だけど、彼らには思想もなにもなく単に「国立」と名乗ってみただけなのだった。アナーキーとはこういうことなのでは?みたいなところがある。彼らはアナーキストですらない。
まあ見てみないと判断はつかないんだけど、「コーポ北加賀屋を特権的に扱う」というか、ようするにキュレーションが「アナーキズム的な志向をもった人たちがアナーキズムの実践としてコレクティブな活動をしていた」みたいなパースペクティブでやっているんじゃないかという疑惑をぱっと抱いてしまう。そうじゃなくて、アナーキーな実践はそもそもそこらにあって、それを排除するのは制度と制度の内面化なのだ。自生的なネットワークからたまたま名前が残る集団や場所がいくつかあるというだけのことで、そこには思想もクソもなくて、そういうのが発生するような環境がある。
2月までか、気になってたし行こうかな
https://www.museum.toyota.aichi.jp/exhibition/anarchism_and_art
この文脈で国内事例としてコーポ北加賀屋が特権的に切り取られるの納得いかないな〜とおもっちゃうんだけど、平成美術に対しても「年表にあそこがない、ここがない、それはなんでだ」と椹木野衣に文句つけたって話を先日聞いたのだった。
https://www.museum.toyota.aichi.jp/exhibition/anarchism_and_art
この文脈で国内事例としてコーポ北加賀屋が特権的に切り取られるの納得いかないな〜とおもっちゃうんだけど、平成美術に対しても「年表にあそこがない、ここがない、それはなんでだ」と椹木野衣に文句つけたって話を先日聞いたのだった。
地域アートのことは自分も書こうかとおもって消したところなんですが、ちょっと違うんですよね
自分の思うところでは、集団アトリエの延長として自生的な空間がいくつもあり、それがネットワーク化していて、制度外アウトプットの場がけっこうあった。地域アートにとってアートとは地域の文脈から独立して外から入ってくるものだとおもう。地域アートは自生的ではなくて、外部資本にたよったり外部のアートに頼ったりしてしまう。
自分の思うところでは、集団アトリエの延長として自生的な空間がいくつもあり、それがネットワーク化していて、制度外アウトプットの場がけっこうあった。地域アートにとってアートとは地域の文脈から独立して外から入ってくるものだとおもう。地域アートは自生的ではなくて、外部資本にたよったり外部のアートに頼ったりしてしまう。
今年の武蔵美の芸祭にいってみて、まあ真面目に見ていないんだけど、デモを迷惑行為としたり、その芸祭の外で留学生を中心に抗議活動があったり、その一方で芸祭の中では学生が自分の作品に値段をつけて売っていたり、お酒の提供がなくなっていたりした。これはいまの美術業界の縮図みたいなもので、官僚的な制度とマーケット、制度に抗議するアクティビズム、みたいな形になっている。10年くらい前の制度批判的な作品はアクティビズムという感じは少なかったんだけど、制度やマーケットの外にあるコミュニティはわりと広がりがあり、そういうコミュニティが拠点になっていたからできていた作品群というのがあった、という印象がある(田中功起とかもこういうところからでてきている)。しかしこのへんはまじで歴史化されづらい。
blanClass とかも2019年からだいぶ間が空いているな
https://blanclass.com/ja/timeline/
https://blanclass.com/ja/timeline/
武蔵美すぐのところにあった22:00画廊とか、アーカイブごと消えてしまった。3番ギャラリーとかも、武蔵美近辺の人しかしらないとおもうけど、アーカイブがない。このころはやっぱりアナーキーな雰囲気かなりあって、制度批判的な作品とかも多かったんだけど、それを支えていたのは自生的なコミュニティだったなとおもう。
いろいろ思い出を掘り返してみて、10年以上前の美術業界の端っこというか裾野がまあまあアナーキーな雰囲気あったんだなぁとおもう。謎の自生的なコミュニティがぽこぽこあって、いまも続いているものだと国立奥多摩美術館とか。学校とか美術館とかマーケットとか、そういう制度の外に自生的なコミュニティがたくさんあって、勝手に生れては消滅していた。
最近そういう流れが少ない気がするけど、知らないだけなんだろうか。
最近そういう流れが少ない気がするけど、知らないだけなんだろうか。