私は90年代半ばに大学生だったんですが、中野翠のコラムを読んで『ゴー宣』を読み(念のため書いておくと中野翠は偏った主張がマンガの力で説得力を持ってしまうことの危険性に言及していた)、その話を当時所属していた音楽サークルの後輩男子に話したところ、「あんなのまともに読んだらダメだよ」と諭されたのがものすごく恥ずかしくてそれきり読んでないです。ハードロック好きの後輩ありがとう。私より年上で入学時から髭生やしててガタイがいいからどう接していいのかわからなくて初対面の飲み会でゴー宣の話をしてしまった私もだいぶアレな人間だがそれが結果的によかった。そういえばマ・ドンソクのこと初めて見た時に真っ先にこの後輩のこと思い出したんだよね(ほんのちょっと似てる)。
……なんかゴー宣読んだことがあるって書くだけでだいぶ勇気がいるし恥ずかしいなもう何十年も前のことなのに。
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https://digital.asahi.com/articles/ASR8B3SR0R88UCVL01B.html
「第二次世界大戦敗戦前に本州、北海道、九州、四国以外で日本が支配していた土地」とWikipediaに書いてあったけど、北海道は植民の歴史が新しいし、それより北の領土(外地)となると北方諸島くらいになるわけだから、北海道が「内地」か?というのは気になった。
いまのところ、このTwitter版投稿はそれなりにバズってて、そろそろ右翼から攻撃きそうだな〜と返信欄を閉じた。
が、いまなお引ツイで右翼からの攻撃がないし、渋沢栄一のあの欲深そうなジジイの面構えと相まって拒否感を持つ人の方もけっこう多いのかもね。「日本型資本主義の父」というのが現在の保守にポピュラーな渋沢栄一像なんだが、左右を問わず、日本型資本主義にありがたみを感じない人も多いのもありそう。
心から蓮舫に勝ってほしい…。彼女が勝ったら絶対に官公庁の態度もすげえ変わるんだよ…秋の臨時国会、来年度の予算。交渉や懇談でまた覇気のない死んだ目で定型文を読み続ける官僚と対峙するのやだ。彼らの態度、どんどん酷くなっていて「私は粘土と話してるのかな?」みたいな状況なんですよ。ほんとやだ…
Wikipedia最後まで読んで、「「持てる国」と「持たざる国」との二極化」って書いてあるのは笑ってしまった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%81%90%E6%85%8C
"日本の周辺地域統治の総体にあえて「〇〇主義」の名称をつけるなら、後藤新平や寺内正毅が述べたように「無方針」「漸進主義」であり、あるいは「ご都合主義」しかないだろう。支配下においた人間たちを「日本人」であるともないとも言明せず、その時々の状況判断によって包摂と排除を使い分ける姿勢は、「包摂」「排除」ないし「日本人」「非日本人」という二項対立からみれば矛盾であり、分類不能のあり方にみえる。だがこれは、支配側が「日本人」「非日本人」といった分類枠の言葉では表現しきれない願望を抱いていた結果にほかならない。この曖昧さこそ、支配側が「日本人」の境界をその時々の利害によって決定する裁量権を確保するために設けた抜穴であり、支配がもっとも発揮される場であったといえよう" 『〈日本人〉の境界』 654ページ
ポスコロ的な認識・理解が歪みまくっているの、じつはこのせいだったりしないのか
日本政府が内地以外の統治区域を植民地と呼ぶことは珍しく[要出典]、ほとんどの法令は個別の領域名(樺太・朝鮮・台湾等々)をもって記述されるのが通例であった。
日本における外地(がいち)とは、第二次世界大戦敗戦前に本州、北海道、九州、四国以外で日本が支配していた土地を指す語である[1]。
属地(ぞくち)とも称され、台湾や朝鮮などの日本の領土だけでなく日本政府の統治権が及ぶ外国の地域も含まれた。外地に対義する地域は内地と称されたが、「内地」が共通法に基づく法的用語だったのに対し、「外地」は法的に定められた用語ではなかった。
日本では、日本の支配下に置かれた朝鮮や台湾等を「植民地」という用語で表現することが一般にあったが、それが1920年代頃から「外地」に切り替わっていったという指摘がある[2]。「植民地」という用語は、もともと政治上又は経済上の用語であって、法律上の用語としては適当でなく、「植民地」の原語に相当する外国語(コロニー)と同様に、帝国主義的搾取という特殊の連想を伴いがちで、大日本帝国の新領土統治の本旨を適正に表現するにはふさわしくなかったと指摘されている[3]。なお、法律上の用語として「植民地」という用語に代わって「外地」という用語を用いるようになったのは、1929年(昭和4年)の拓務省の設置を契機とするとの指摘がある[4]。すなわち、主として朝鮮の官民が植民地扱いされることを喜ばなかったことから、拓務省設置後、小村欣一拓務次官の座談から、「外地」という用語が生まれたとされている[4]。