ポイントは、すべてがハルシネーションであるということだ。ただし、間違いが発見された時にのみ、そう呼ばれているにすぎない。問題は、大規模言語モデルが非常に優れているため、でっち上げの内容がほとんどの場合、正しく見えてしまうことだ。そのせいで、回答を信頼することが困難になっている。
https://www.technologyreview.jp/s/339410/why-does-ai-hallucinate/
問題はアイロニーの巧拙にあるのではなく、アイロニカルな話法や戦略を選ぶなら、それを徹底していかざるを得なくなる、というところにある。90年代サブカル的な反倫理をぼくがいま選択しないのは、それを徹底していくだけのハードコアさが自分に無いからであって。「自分は倫理的な人間だから」ではない。皮肉や冷笑をもって現実に介入することは、「真面目」にやることよりも本当は圧倒的に難しい。天然かつ無手勝流でそれを実行してしまう異様なプレイヤーたちと、弱く「真面目」なまま対決するやり方をちゃんと組み立てなければいけない。
ソーカルとドーキンスのやつを読み、「出生時に割り当てられた性」と表記することは解剖学的・生理学的身体に起こる問題への医学的・心理学的アプローチになんら影響を与えないにもかかわらず、やれ染色体だ、客観的な科学的事実だともっともらしく騒ぎたてていて端的にムカつくのだが、こういう科学絶対真理主義者たちと対峙するために人文学あるのだよなと思った(「事実」が何に担保されるのかを問うことができるため)
6月28日 18:34まで全文お読みいただけます
なぜ沖縄県に連絡がなかったのか 米兵事件、自民県連も「常識外れ」:朝日新聞デジタル https://digital.asahi.com/articles/ASS6V3WFWS6VUTIL00VM.html?ptoken=01J1CGQWH6K17C1HN6DD2ESG41 #自民
しかし生姜ないのひと、年甲斐もなくネットで陰謀論に染まって…というよりも、今のこの日本で社会人をしていて、しかも経済的に成功していればいるほど新自由主義の価値観に染まっている可能性は高いわけで、もともと福祉やジェンダー・セクシャリティの多様化、非営利事業やそのための税金や補助金など新自由主義が嫌いなものを嫌っておられたのではないかと思う。
その暗い情念が暇アノンに出会うことで一気に吹き上がったということではないか。
都美セレクショングループ展
https://www.tobikan.jp/exhibition/2024_groupshow.html
の『ずれはからずもぶれ』すごい。おすすめです
https://zure.baexong.net/index-jpn.html
まさにこれで、完全に越権行為だとおもうんですよね。ミクロレベルでの男女性差というものをそのままマクロレベルで自明な事実として扱うのは、シュレーディンガーの猫的な問題で、そこにギャップがあると考えないのがそもそも科学的主張として不誠実だとおもう。
んー、ドーキンスとソーカルの文章、sexが染色体に基づいて極めて明確に事実として観察される物だという説明から、性別は公共政策的も重要な指標であるって説明に移るところのズルさを感じる。殺人を犯す割合は男性のほうが圧倒的に高い、って言ったときに、その指標に適切なのが染色体XYのことかAssigned Male at Birthなのか、男性の戸籍で生活してる人なのか、男性を自認してる人なのかは自明じゃないでしょ。
https://note.com/wypcg332/n/n2fd87efc404f
事実は、事実を事実として特定するフレームがあってはじめて事実になるので、社会構築主義が議論したのはその事実を形成するフレームだとおもう。ソーカルとドーキンスの枠組みはたんに社会構築主義へのキャンセルで、科学への社会構築主義の持ち込みを否定しているけど、もちろん実質的にはそれ以上の効果をあげることが意図されている。とくに「世界中で、殺人の大多数は男性によるものです。女性は男性よりもはるかにシングル・ペアレントになる可能性が高いです。」とかの記述は、それ生物学的に議論することではないでしょ以外の感想がなく、こういうことも男女性差という「科学的事実」から導きだせるとするのは越権でしかない。
ドーキンスとソーカルがやろうとしていることこそが言葉狩りじゃないですかね。社会が生物学的に決定できるという観念のほうが古い観念だとおもう。古いという言葉が悪ければ、ある特定の一時代の観念であって普遍性があるわけではない。