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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

戦後の日本近代美術の記述のおおくが、「西洋美術の輸入」という観点をかなり強調する論点が多いんだけど、すくなくとも当時の岡倉や横山大観、菱田春草らの意識のレベルではまったく事実は異なる。彼等は自民族中心主義者だったのだけど、それゆえにというべきか、「日本画」という概念も「西洋画」という概念も必要とはしていなかった。彼らは西洋から見たときに地理的に相対化される「日本」ではなく、「自分から見たときの世界」という視点で制作していたので、「絵画」という言葉があれば足りていた。フランス帰りの黒田清輝が「西洋画」という言葉を導入したというか、もっと言えば発明したと言ってよくて、岡倉らの活動を相対化する目的で導入したものだろう。

そもそも、当初においては、現在の「日本画科」というのは「絵画科」であるはずで、「日本」という地理的特性を冠しているわけではない。そこからまず「西洋画」という領域が切り出される。当時「絵画」という概念の指していた領域は現在のように日本画とか西洋画とかに分裂していたわけではないけど、自民族中心主義は暗に仮定されていた。岡倉天心の講義していた美術史の内容からそういうことはできる。
そこから、「西洋画」や「油絵」という制度的な名称が生じるのは、まさしく政治的な理由ではあるのだけど(黒田清輝の登場)、そこからただちに「日本画」という名称が生まれたわけではない。いつ「日本画」という言葉が生れ定着するようになるのか、気になる。佐藤道信が書いてそうだけど書いてたっけな...。

芸大の油画科は当初「西洋画科」として設立され、昭和8年に「油画科」と名称が変更されている。これあんまり考えてこなかったけど、「絵画」をめぐる思考の軸、もしくは制度的な軸が、西洋対日本(東洋?)という地理的な軸が後退し、油絵という媒体的特性に還元される。時局的な問題もあるとおもうけど、制度上の名称変更はいろいろ考えてみたいところ。

1896(明治29)年に東京美術学校に西洋画科が設立されて以来、本学においても欧州の同時代の絵画思潮を移入摂取しつつ、日本という土壌での油画の展開が連綿と続けられてきました。1933(昭和8)年、西洋画科は油画科と改称し、1949(昭和24)年東京藝術大学が設置されると、絵画科油画専攻となり現在に至っています。 https://geidai-oil.com/summary

「グラフィック版 好色五人女」、好色五人女主題の絵とかがたくさん紹介されているかなとおもって買い、そんなことはなかったんだけど、暉峻康隆の解説と、暉峻康隆と吉行淳之介の対談が勉強になった。
https://amzn.asia/d/fGZ0R9q

西鶴、「銀(かね)が銀をためる世の中」とか、まじで資本主義の話なんだな

沢山さんいつのまにか准教授なっとるやん
https://www.musabi.ac.jp/course/common/had/faculty/sawayama_ryo/

自分としてはこの絵葉書データベースがけっこうありがたい。
https://tenrankai.nichibun.ac.jp/il/meta_pub/G0000002postcard

日文研、いろいろなデータベースを公開しているの知らなかった。
https://www.nichibun.ac.jp/ja/db/

これの続きどうなってるのかな。2023年8月に最高裁による和解の棚上げがあり、判決は「来年早期になる可能性が高い」のだと出ていてもおかしくない気はするけど。
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2023-08-11/RZ8GPSDWLU6801

https://news.un.org/en/story/2024/04/1149051

Gaza’s unexploded ordnance could take 14 years to clear (UN News, 2024-04-26)
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国連地雷対策サービス部(UNMAS)幹部の見解では、現時点の推定で、ガザ地区は1平方メートル当たり200kgの瓦礫が残されている。イスラエル軍が投入した弾薬の10%が不発と推定されるとのことで(総量は不明)、それらが混ざった瓦礫の撤去にはトラック100台✖️14年間の作業が見込まれるとのこと。🚚

… まだ停戦すら実現しないのに。

事実です。
朝鮮時代にはニャン(냥)という単位を使いました。
近代化の後ウォンに変わったんですけど
今も1000ウォンを1000ニャンと書く所もあります。

말 한마디에 천냥 빛도 갚는다.
一言で1000ニャンの借金も払える。

という言葉もあります。

RE:
https://misskey.io/notes/9so7juj0s6v9064h

情報を集めて整理するの楽しい。アホみたいな行為なのになんでこんなに楽しいんだろう。

先日はSNSでラーメンマンが無限に受けていたが、『花の慶次』をひさしぶりに再読してみたところ、「ムッ、やつは甲斐の蝙蝠!」と目撃者ジジイに言わせるためだけに、道端で仁王立ちした黒装束の巨漢がむしゃむしゃ蝙蝠を生で食ったり(オジー・オズボーン神話だ!真似したら死ぬ!)、頭蓋骨を加工した盃で戦国武将が飲んで、プファ~とかやってるんで、90年代前半ジャンプはだいたいラーメンマンと同じ地平だよな・・・と思ったわ

まあ自分が読んでる羽仁五郎はミケルアンジェロだけなんだけど。これめちゃくちゃおもしろかったです。「ミケルアンジェロは生きている。疑うものはダビデを見るがいい」みたいな書き出しで、フィレンツェがいかに「近代」だったか、それがメディチ家の台頭でどう堕落したか、とかを左翼らしい明快な筆致で書いています。

ミケルアンヂェロ 改版 (岩波新書 赤版 25) https://amzn.asia/d/71TCyk2

羽仁五郎が、ギリシャがあれだけ高度な知的活動をしつつ科学があまり発展しなかったのは、奴隷がいて生産性向上しなかったためだって、たしか書いてたな

世界史のおべんきょでヘレニズム文化のくだりまで来た。こいつら奴隷が色々やってくれるのをいいことにずいぶん好き勝手やってやがるな

後世の研究者がこういうのにきわめて鈍く、木賃宿での展示を簡単に「良いこと」として扱うのとかもなんかなぁ...。

清方が帝展みたいな構造のなかで、プロレタリアートの境遇を表現すべきだと主張したところで、当のプロレタリアートは帝展なんて見に行ったんだろうか、あるいは見に行ったとて、そこに労働者が描かれているときに何を思えばいいのだろう

鏑木清方が大正のプロレタリア芸術の興隆を背景に、自身のやろうとしていることを「社会画」と呼び、木賃宿で少展覧会を開いたという振る舞いには、ウゲッとなる。彼は労働も社会階級の差も、表象の問題としてしか処理できていないし、自身の社会階級にはかなり無自覚だ。
いまの国立西洋美術館での「ここは未来の...」展で、山谷を取材した弓指寛治氏の絵にも、これに似たような態度がある。

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