芸大の油画科は当初「西洋画科」として設立され、昭和8年に「油画科」と名称が変更されている。これあんまり考えてこなかったけど、「絵画」をめぐる思考の軸、もしくは制度的な軸が、西洋対日本(東洋?)という地理的な軸が後退し、油絵という媒体的特性に還元される。時局的な問題もあるとおもうけど、制度上の名称変更はいろいろ考えてみたいところ。
1896(明治29)年に東京美術学校に西洋画科が設立されて以来、本学においても欧州の同時代の絵画思潮を移入摂取しつつ、日本という土壌での油画の展開が連綿と続けられてきました。1933(昭和8)年、西洋画科は油画科と改称し、1949(昭和24)年東京藝術大学が設置されると、絵画科油画専攻となり現在に至っています。 https://geidai-oil.com/summary
そもそも、当初においては、現在の「日本画科」というのは「絵画科」であるはずで、「日本」という地理的特性を冠しているわけではない。そこからまず「西洋画」という領域が切り出される。当時「絵画」という概念の指していた領域は現在のように日本画とか西洋画とかに分裂していたわけではないけど、自民族中心主義は暗に仮定されていた。岡倉天心の講義していた美術史の内容からそういうことはできる。
そこから、「西洋画」や「油絵」という制度的な名称が生じるのは、まさしく政治的な理由ではあるのだけど(黒田清輝の登場)、そこからただちに「日本画」という名称が生まれたわけではない。いつ「日本画」という言葉が生れ定着するようになるのか、気になる。佐藤道信が書いてそうだけど書いてたっけな...。
そこから、「西洋画」や「油絵」という制度的な名称が生じるのは、まさしく政治的な理由ではあるのだけど(黒田清輝の登場)、そこからただちに「日本画」という名称が生まれたわけではない。いつ「日本画」という言葉が生れ定着するようになるのか、気になる。佐藤道信が書いてそうだけど書いてたっけな...。
戦後の日本近代美術の記述のおおくが、「西洋美術の輸入」という観点をかなり強調する論点が多いんだけど、すくなくとも当時の岡倉や横山大観、菱田春草らの意識のレベルではまったく事実は異なる。彼等は自民族中心主義者だったのだけど、それゆえにというべきか、「日本画」という概念も「西洋画」という概念も必要とはしていなかった。彼らは西洋から見たときに地理的に相対化される「日本」ではなく、「自分から見たときの世界」という視点で制作していたので、「絵画」という言葉があれば足りていた。フランス帰りの黒田清輝が「西洋画」という言葉を導入したというか、もっと言えば発明したと言ってよくて、岡倉らの活動を相対化する目的で導入したものだろう。