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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

仮名垣魯文の没年が1894年、魯迅の生年が1881年、ありえない記述ですごい。これ生成AI記事だろうな…。半分くらい事実、半分くらいデタラメという按配で、検索にはしっかりヒットする。

仮名垣魯文は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した戯作者です。「魯文」という号は、魯迅と文豪に由来しています。

ttps://office-kitano.co.jp/products/about-the-kanayomi-a-meiji-era-newspaper/

シンプルにめちゃくちゃいい曲、幽遊白書のOP

https://open.spotify.com/intl-ja/track/5umjq620i9NI0l5wZvmjPr?si=1a4c0e0c1bc84bc8

これ、「ひよっこデザイナーが作る動物図鑑」ってデザインかなり上手くて「ひよっこ」というレベルではない。情報がかなりきれいに整理されいてる。
https://totteoki.studio.site/top

かなり内容に突っ込んだ記事だ。こういうのがでてきたのはよかった。

国立西洋美術館でスポンサーの川崎重工に異例の抗議 作家に「声を上げなければ」と思わせたガザ侵攻との関係:東京新聞 TOKYO Web https://www.tokyo-np.co.jp/article/319834

キーボード打鍵時にディスプレイが揺れまくって酔う

春だ! デパコスを買おう!
https://panjandrum662.blogspot.com/2024/04/blog-post_7.html
デパコスの買い方(?)についてのブログを書きました!!!!

[ アマゾンのAIレジなし技術は1000人以上が人力操作していた。店舗から撤去を発表 | ニコニコニュース ]
https://news.nicovideo.jp/watch/nw14699472

「個人の中にしかない自認を他者に対して同じように認識しろと強要できる理由」を知りたいみたいな投稿を見たけど、そもそも他人がある人をどう見るかに、その見られる人本人の自認はあんまり関係ないんだよな。だいたい人間はどうしたところで他者と関わることなしに生きていないので、常に「こう認識してほしい」というメッセージを出していて、それはふつう尊重する。シスの人はだいたいそういうメッセージを出していて、それは尊重されているから、みんな悟空みたいに股間をパンパンしないで済んでいる。シスの「自認」なんて誰も覗き見ようとすらしないのに、なぜトランスの「自認」は特別に問題だと思ってしまうのか、理解に苦しむ。

ブックオフで不用品を売ると、その売上がガザ支援に充てられますよ!
ちなみに一点から売ることができますが、店舗での持ち込みは対応してなくて、ネットでのみの集荷なのでご注意を。

https://www.ngo-jvc.net/news/news/jvc_bookoff_gaza2023.html

おもしろそう

探検界のレジェンド・関野吉晴が生命循環をめぐる旅へ。「うんこと死体の復権」 |キネマ旬報WEB
https://www.kinejun.com/article/view/36754

ていうか、自然言語の研究じたいに、言語の工学的特性に着目した研究がないと、アナロジーは効かないか。

最近のTwitterを見ていると、おすすめ欄にリコメンドで見知らぬフォロー外のユーザーのツイートが流れてくるし、TikTok的におすすめ欄にショート動画まとめサイトが何度も流れてくるし、割と自分の顔写真を載せる若いオタクが結構いたりするし…FacebookとTikTokを混ぜてインプレッション数向上を狙う謎のSNSにプラットフォーム自体が変わっちゃった気がするな。

匿名で普段の生活が謎すぎるツイッタラーによる深夜の独白を楽しむSNSではなくなってしまった。その点では、分散型SNSの方がまだ自分の知っているSNSに近い。

言語を自然科学的な研究対象としてみる試みとして、比較言語学とかあったとおもうんだけど、それは言語の形態的類似性みたいなものの研究ではある。で、そこから人工的言語をつくることができるのか?みたいなのは、プログラミング言語の設計にとっても意味のある話なのかもしれない。

バイオミメティクスっておもしろいけど、ソフトウェアでどれくらいこの話できるのかな。形の類似性を考えるのが難しい。パタンランゲージも本来はこれだとおもうけど、まだあまり研究が進んでないような気はする。

厚紙で作ったハニカム構造、どれくらいの重さに耐えられる?【静岡科学館×静岡新聞】 https://youtu.be/BvUs1lWf1hM?feature=shared @YouTubeより

メルロー=ポンティ、世界との出会い方のモデルとして芸術家を考えていて、それと対比するようにデカルト哲学をいわば世界との出会い損ねとして考えているけど、世界のなかでの他者との出会い方みたいなことをそれぞれ考えていたんだろうか

プールの話、『眼と精神』です

メルロー=ポンティが、このプールの水は出掛けていってあそこの木に訪れている、みたいなことを言っているとき(水の反射のきらめきが糸杉に反映している、ということを言おうとしている)、それって水と木の出会いみたいなものが言われているとおもうのだけど、この場合モノ同士の出会い方はかなり詩的な出会い方をしているし、たぶんメルロー=ポンティはそう捉えていたんだろうとおもう。世界はモノどうしが出会う場であるとして、それがいい感じに出会ってしまうのがメルロー=ポンティだとしたら、サルトルはおなじことについて、自閉性が壊されるような他者の出現にイライラしていたのか?みたいなことが気になりました。そういう理解をしていっていいのかもよくわかっていないけど。

絶対的出来事、おもしろそうな概念だとおもったけど、事物性と分けられる事実としての出来事の存在って、世界では否応なく他者(人とは限らない)と出会っていて、そういう出会いの偶然性の無意味さ、みたいなものかな。べつに人が人と出会うというだけでなく、人がモノと出会うこと、モノがモノと出会うこともあり、出来事はそういうモノどうしの相互作用によって「出来事」である、とか。
モノの存在が欲望とか意識とかの対象として在り、自己のなかで自閉しているとすれば、出来事は世界のなかで起きており否応なく自閉的世界を壊している。とか、そういう意味で「無意味」なものとして立ち上がるのか?

おしりも貯金も削り取られる

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