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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

>Xユーザーのmod_poppoさん: 「Rubyの「全てがオブジェクト」みたいな謳い文句はJavaに対する差別化でしかないと思っていて、Javaよりモダンな言語が多数登場した今となっては賞味期限切れな台詞なのではないか」 / X https://twitter.com/mod_poppo/status/1748868929613881458

なるほど

サーバーサイドのフレームワークよりはるかに制約が強く、イリュージョンもかなり強固に効く。応用は利かない。

フレームワークがこの抽象を作り出しているけど、これはプログラマーのための抽象で、コンテキストスイッチが不要だったり、ブラウザとサーバーで処理の再利用ができたりする。そのために特定のランタイムが必要になる。これはフレームワークというより言語といったほうがいいのかもしれない。

いまの仕事がnuxtだけど、仮想domをサーバーとブラウザで同期させて状態伝搬させるやつ、表面上はサーバー側もブラウザ側も同じスタイルで書けて良かったねになるけど、ネットワークの境界を曖昧にし過ぎて周辺に異常な複雑性を生み出している。とくにキャッシュのプラクティスが異常性高い。ストレートに抽象化の漏れの例なんだよな。

htmxをちゃんと追ってないけど、あっちのほうが考え方好みなんだよな

1980年代後半のコンピュータ科学がハイデガーの道具論を参照していたのと似た話でもある。人間は道具の操作の失敗に対処して目的を達成することができるが、AIはできなかった。それが彼らをハイデガーに向かわせた理由だけど、つまるところ人間は抽象のなかで生活しながら、いつも抽象化の漏れに対処している。

この抽象と抽象化の漏れの話、メディアの透明化みたいな話だなとおもう。コンピュータが上手く機能しているときコンピュータの存在は忘れられている。ドナルド・ノーマンは、私は仕事をしたいのであってスプレッドシートを操作したいのではないというようなことを言ったけど、コンピュータを操作するとかスプレッドシートを操作するとかが意識されている内は、仕事に対して道具の具象性のほうが露出してしまっている。「あの値をこう計算したいんだけど、スプレッドシートの関数なんだっけ?」みたいなあれ。UIとはまさにこういった抽象化層で、もろもろ漏れがないように抽象化するわけだが、まあいずれにせよ人工物が人間の多様性と複雑性にかなうことはないだろう(漏れはかならずある)。

TCP は必ず届く信頼できるプロトコルだが、IP は情報が届いたり届かなかったりする。だが TCP は IP という信頼できない情報網の上に成立している。これは魔法である。
ジョエルはこの魔法を説明するのに、ハリウッドに俳優を送りこむのに、俳優を車に乗せる方法を考える。この車は不幸にもしばしば事故によって俳優を死なせてしまったり、気付いたらその途中で俳優の見た目が変わっていたりするものとする。この自動車による俳優配送システムのうえに、ハリウッド・エクスプレスというサービスが構築され、このサービスは俳優を順番通りに完璧な状態で到着することを保証する。途中で事故があったら俳優の双子を届ける。途中で渋滞があっても、届くのを待つ側としてはちょっと遅いなとおもうくらいで、届くことは保証されている。
これがTCPという魔法で、コンピュータ科学で言う抽象化(abstraction)である。ハリウッドエクスプレスは、例外を処理してどうにか期待された結果になるようにしている。例外をハンドリングできていれば抽象が確実に機能するという幻想は保証されているが、例外なんていくらでもあるわけで、ルーターに繋がるケーブルが千切れていたらいかにTCPであれ届けようがない。これをジョエルは「抽象化の漏れ leaky abstraction」と呼ぶ。

The Law of Leaky Abstractions
https://www.joelonsoftware.com/2002/11/11/the-law-of-leaky-abstractions/

おもしろかった。

SNSは戦場だってもう比喩でもなんでもなくなってしまったな

ベンヤミンは、「複製技術時代」で利用したこの観念が「技術の進歩」というイデオロギーとなんとなく結託してしまうから、歴史の天使という戯画を出してきたんだろうとおもうんだけど、そういう読みをしている人はいるのかな。

知覚はその時代のメディアによって組織されるという議論、敷衍すれば知覚を組織するにはメディアが必要だということになって、身体もまたメディアであり、つまり眼は取り外し可能なデバイスとおなじように機能するという議論になりそうなんだけど、どうなんだろう。身体に依存しない知覚主体と、知覚を生成する器官(身体=機械)とからなる心身二元論なのでは。

「レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンがいままでなんのマシーンにレイジしてきたとおもってるんだ?アイスクリームのマシンか?」みたいな記事読んで、そういえばベンヤミンの「複製技術時代」で、俳優は機構に抗して演技している、労働者はふだんから機構に敗北しているから機構に勝利する俳優に釘付けになるんだ、みたいな議論してたのをおもいだした

落語は残ったのに浮世絵は残ることができなかった、なぜだろう

落語家の一門や個々人に芸風や得意分野があって、それぞれ噺を師から弟子に相伝されていくもので、師から手解きなしには高座では演れないしものによっては噺が失伝したりもする

この記念碑の撤去を求める活動は紛れもなく政治的活動だけど、イベントで「強制連行」という言葉を使うことは単に歴史認識の問題でしかない。県は歴史認識の問題ではないとしながら、言葉の使用そのものを「政治的活動」としてしまっているわけだから、歴史認識を政治的問題だと白状している。

代表のサッカーなんか絶対観ないし、クラブチームももう殆んど観てないけど。

アジアカップでパレスチナ代表、ベスト16進出らしい。

パレスチナ代表には、年代別ではイスラエル代表に選出されていたがフル代表ではパレスチナ代表を選択した選手が複数いる。なんならU-20イスラエル代表でキャプテンだった事のある選手がパレスチナ代表を選択している。

https://twitter.com/FutbolPalestine/status/1749892946286248032

これこそまさに検閲

言葉狩りそのもの

6回の口頭弁論を経て、2021年8月26日、東京高裁は、過去3回の追悼式で参加者が「強制連行」という言葉を使ったことを挙げ、「これらが政治的発言に当たり、本件追悼碑を管理する被控訴人自身が、その碑文に記された事実の歴史認識に関する主義主張を訴えるための行事(政治的行事)を行ったものといえる」「このような被控訴人の行為により、本件追悼碑は、政治的争点に係る一方の主義主張と密接に関係する存在とみられるようになり、中立的な性格を失うに至った」ゆえ、「公園施設として存立する上での前提を失うとともに、設置の効用(日韓、日朝の相互の理解と信頼を深め、友好を促進するために有意義であり、歴史と文化を基調とする本件公園にふさわしいもの)も損なわれたものということができる」から、碑の設置更新を認めないとした。前橋地裁の判決を覆し、県の主張を全面的に認めたのだ。

強制連行っていったら政治的発言だから撤去とか(政治的活動をおこなわないという設置条件に反する)。言葉を奪っていくことがまさに政治的活動でしょ。

除幕式や追悼式で参加者が「戦争中に強制的に連れてこられた朝鮮人がいた事実を刻むことは大事」などと発言したことを「政治的発言」だとして、設置許可に付された条件違反が行われてきたことから「本件追悼碑の設置目的が、日韓・日朝の友好促進に有意義なものであるという当初の目的からはずれてきた」「政治的発言がおこなわれた結果、本件追悼碑は存在自体が論争の対象となり、街頭宣伝・抗議活動など紛争の原因となって(おり)、このような本件追悼碑は、憩いの場である都市公園にあるべき施設としてふさわしくない」と裁判で主張してきた。

https://imidas.jp/jijikaitai/f-40-226-21-09-g689

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