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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

ヨーロッパ哲学者の世界観に対して一貫して向けられるヨーロッパ中心主義という非難は、たんに彼らの思考における認識論的欠陥に基づくものではない。それは道徳的頽廃の一貫した兆候である。私は過去に何度も、ヨーロッパの哲学的思考とその最も著名な代表者の根底に現在ある不治の人種差別を指摘してきた。この道徳的頽廃は、たんなる政治的過失やイデオロギーの盲点ではない。それは彼らの哲学的想像力に深く刻み込まれており、そのために彼らは救いがたいまでに部族的なままなのだ。

はあー、ようやく内実理解したけどこれは結構ひどいな

1からわかる政治資金事件 自民党派閥 安倍派・二階派の会計責任者 虚偽記載罪で東京地検特捜部が在宅起訴 安倍派 岸田派 二階派解散へ いったい何が? | NHK政治マガジン
https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/104266.html

私は、政治的な投稿よりも「崇徳院の歌はなぜおもしろいか」「ネイビーズアフロの漫才はなぜおもんないのか」のほうがおもしろいし、ある意味では大事だと思うんだけれど、本当にこういうことには関心ある人は少ないし、良いとか悪いとか楽しめる人が少ない。中学生の時からREM聴いたりしてたくらいだからポリティカルであることもとても大事だと思ってるけれど「いい映画だなあ」とか「いい歌だなあ」「おもろい漫才だな」とかそういうことをもっとみんな感じていったほうがいいと思うんだけどな。

どんな文化的活動もその背後にある制度や政治と無関係ではありえなく、またその仕事の質が、その背後にある制度との緊張関係から生まれることはよくあることだとおもう。孤立した芸術活動なんてたぶんない。

これは特定の人たちが権威主義化していくということではなく、制度全体が資本とか政治的なあれこれとかから栄養を得て発達するわけで、その制度全体のなかで権威が要求され、たまたまそういう権威のポジションに就くひとがいる。そいつがいいやつである場合もあるしカスである場合もある。

文化の諸領域で、ある時点で権威主義的になっていくことがあり、そうなるとそっちの方向では具体的な政治が働きはじめて制度化されてくる。この政治的な性格は作品にも否応なく反映される。ここで動作する政治性は「男らしさ」とかそういうふうに呼ばれるべきではないとおもう(混乱するだけなので)。
みたいなことが一般論としてあるなと、TLをみながらおもった。

typo ってコード検索しやすいのがいいな(よくない)

そういえばサルトルはなにも読んだことがない気がする...。嘔吐すら読んでない。

https://twitter.com/kinutashika/status/1749286073505808566 きぬた歯科のおかげで投票率が上がるとかあるんだ。

「ドイツの過去のナショナリズムを批判することで「歴史から学んだからこそドイツは優れている」と主張する新たな形のナショナリズム」
日本とは表面的な形が逆に見えるというだけで、どこも似たようなことが起きているような。
ドクメンタの経緯を通じて、「反省」どころかユダヤ人に関わる問題が事実上タブー視されているだけであることがあきらかになったのは、衝撃的だった。
https://mainichi.jp/articles/20240121/k00/00m/030/108000c

「イスラエル・ロビーやギリシャ・ロビー、アルメニア・ロビー(という特定の民族のロビー)が存在するのが米国の政治システムだ。しかし米国がイスラエルを支持する理由は、ロビーではない。米国の軍需産業に利益をもたらすなど、中東における米国の安全保障上の利益にイスラエルが非常によく貢献しているからだ」

「今日のドイツでは、イスラム教徒への人種差別が社会的に容認されていることに注意しておく必要がある」
「ドイツ人になりたければ、イスラエルの生存権を認め、イスラエルを明確に支持しなければならない」という論理は、イスラエルに批判的なトルコ系やアラブ系住民や移民を「ドイツの一員ではない」と排除することになる。これは非常に「洗練された」人種差別と言える」

https://mainichi.jp/articles/20240121/k00/00m/030/108000c

フォローされて人のタイムラインに昇るということは、己の他者への住み着きと言える アイコンが言句が文体が、相手方に住まわる(仮住まいする)のだ

この問い、なんか好きだな。意味があるかもわからないけど。

雨は降るからやむ、では反対にまずやんでから降る雨というのはあるのかな

訳あって最近ちょっと書いている文章、びっくりするくらい論理的ではない
書いている自分は何を書いているか把握しているつもりなんだけど、何年か後に読んだら何を言っているのかわからなくなりそう

というか美術史と制度の発達が相互依存関係にあるだけのことで、美術史が制度研究を行ない、自らの拠って立つジャンルという足元を見直してみせたところで(自己の存在由来を説明してみせたところで)、何も謎が解明されていないという感触がある。

ジャンルの弁別ってあちこちの美術史家が語りたがる、すごく一般的パターンなんだけど、なんだろうな。だれか単一の美術史家が源泉としてあるわけでもないとおもう。それくらいいろんなところに顔を出す発想だし、繰り返される。自分の思うところでは、これは美術史が構築するフィクションなんだけど、このフィクションそのものが制度化されていく(文展における出品区分とか、「日本画科」とか...)。

美術史のアプローチだと、一般にはこの各技術の発達過程をジャンル史として処理してしまう。つまり、相互に差異を明瞭なものとして独自領域として確立していく様を描こうとしてしまう。だがこれは話があべこべで、現在の我々がジャンルという目線を通して歴史を見るからこそ、歴史がジャンル弁別の過程に見えてしまうだけのことである。

各部が連携しない諸要素のあつまりと見るべきではなく(ジャンルとはそういった見方だ)、技術的諸要素がどのように構造化され、全体のなかでのある位置を獲得したか、全体がいかに発達したかを考えるべきなのだけど、遠いなぁ...。

通時的・共時的みたいな話かもしれないけど。

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