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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

OGPも「無料」になっている。有料か無料かはサーバー運営者が決めることでどうでもいいことだが、マストドンが「自由」を主張している(自由ソフトウェアであることを明示している)ことはけっこう重要な話だから、良くない誤訳だ。マストドンというソフトウェアは社会運動として理解されるべき資格がある。

これ「Mastodonは無料でオープンソースなソフトウェアです。」って訳されてるけど誤訳だな。
https://joinmastodon.org/ja

この free は free software の意味ですよね
> Mastodon is a free, open-source social network server based on ActivityPub where users can follow friends and discover new ones.
https://github.com/mastodon/mastodon/blob/main/README.md

自由ソフトウェア運動は「ソフトウェアによってユーザーが不自由にならないこと」をもっと広く解釈しないと社会運動としてはあんまり意味ないな...
自由ソフトウェア運動 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%82%BD%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A2%E9%81%8B%E5%8B%95

マノヴィッチ本、コンピュータにおける生産活動で、プロ(プログラマー)とアマチュアの格差はかつてよりずっと小さくなっているけど、「プロの生産者たち自身が、生き残りのためにその格差を組織的に維持しているから」今後も格差は残りつづけるだろう、と書いてて笑う。そのとおりです。

まあそうはいっても「装飾」という概念についてかなり眼を開かれる本だ。

植民地主義、ジェンダー、他者となるともっと政治的であっていいとおもうんだけど、批判対象がはっきりしないまま脱構築を主張していて、それがずいぶん観念的に見える。近代において「装飾」が植民地と女性に割り当てられてきた、とする論点は歴史研究としてかなり卓抜だとおもうだけになんかもったいないと感じてしまう(なにさま)。

天野知香『装飾と「他者」』はおもしろいんだけど、概念的な検討が過剰でうーんってなる。概念的な性格は読みにくさにもつながっていて、どこに向けられたテキストなのかもわかりづらいなと思う。この主題で歴史を探求しているひとを他に知らないから、貴重な書ではあるのだけど。

pleroma 鯖だけど説明がめんどくさいからマストドンって言ってる

とはいえFediverseやってない人に個別の鯖名言っても通じないから「Mastodonやってます アカウントは@makihara@fedibird.comです」って言った方が通じる

コペルくんが自分の過ちを認めるには、友人関係から疎外されているという意識が必要だったけど、SNSってそもそも最初から疎外されているから、謝罪する意味が感じられないんだろうな。

コペルくんが友人に対して負い目を負うようなことがあって、それに悶々としていたところ、おじさんから友人に許されるかどうかは問題ではない、自分の過ちを認めて謝罪することが重要なんだ、と諭されるところ。

吉野源三郎のほうの「君たちはどう生きるか」にもそういう場面があったな。

誤りも時と場合によっては「許される」ことがあってもいいのかもしれないが、それって誤りをした側に「学び」があってこそ報われる話だし、されたほうが必ず「許す」必要もないよなっていう。

ちょうどハートストッパーでベンがチャーリーに謝罪するシーンがあって。ベンは自分がしたことが悪いと認めて謝るんだけど、それを一応は聞いてチャーリーが「それがいかにひどいことだったか」をベンに伝えるんだよね。「過ちを認められたのは結構だし、同じことを他の人にしてほしくないとは思う」「でも、そうやって改心した場を見たいとは思わない」「二度と会いたくない」っていう。

展覧会「風景論以後」東京都写真美術館で - 写真・映像の“風景”その背後にある社会的構造を問う https://www.fashion-press.net/news/106890

8.11〜11.5。「風景論」というと必ず引き合いに出される人物や作品(松田政夫、足立正生、『略称・連続射殺魔』etc)はひと通り押さえられているようで、そういう《日常的な風景を国家と資本による権力そのものだとする風景論》がまさに眼前で超展開されている──がゆえに、「(国家はともかく)資本による権力」について匂わせる展覧会の企画がなんとなく忌避されている感のある? sticker_dangerous_items ──東京で行なわれるというのは、大きな意義がありますね。まぁ当方は見に行けるかどうか分かりませんが blobcatnervous2

間違いを許す社会も大切なのだと思うけど、「自分の言明は真実そのものである」と疑わない態度もどうにかならないかな。「xxは科学的に正しい」とかもこの言説の一種だけど。

適当に間違っていくのは難しい

SNSで間違ったことを言ってはならないという規範に、あまりにも強く自分を縛ってしまったら、「間違っている人を批判する」か「何も言わない」の二択になっていく。そういう反差別系のアカウントの人たち、たくさん見てきた。

間違ってもいいんじゃないですかね

なぜ植物図鑑か、本棚に見つからないな

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