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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

これはよくわかるな。アート業界からはこういうのあんまりでてこないとおもうけど...。
https://twitter.com/take4luckylong/status/1588790488781717504

> ハントはこう語る。「私が心配しているのは、抗議行動に関わる活動家たちのニヒリスティックな発言だ。彼らは、危機が迫っているのだから芸術どころではないだろうと言うが、それには賛同できない」
> そしてこう続けた。「彼らの言葉から透けて見える危険な兆候には懸念を覚える。今は壁にかけられた絵より重要なことがあり、美しいものや、アートを通した気候変動への批判はムダだというような考え方には」

これとかは、作家はどうおもうんだろうな。作家にはかなりグラデーションあるだろうけど、この美術館館長の発言は、アートを制度に囲いこむ発言にも見える。

この記事は美術館でおこなわれたディスカッション。wokeness って言っちゃってるのはいいのかな...というのと、せっかくならアーティストとか批評家とかも呼べばいいのに、とはおもった。
https://artnewsjapan.com/article/518

活動家へのインタビューで、アイウェイウェイの「Dropping a Han Dynasty Urn(漢代の壷を落とす)」からの衝撃について語られている。
https://artnewsjapan.com/article/338

環境活動家によるアートへの攻撃の記事、ここがかなりまとまってるな。こんなにあったんだ、というのと、ほとんどが Just Stop Oil によるもの
https://artnewsjapan.com/article/612

ガラスケースに守られたモネの上に、鮮烈な赤のレイヤーを加えるという絵面づくりはそんなに嫌いではないんですよね。

デュシャンがモナリザの絵葉書にヒゲ書いたのと戦略的には同じで、ダダイズムの再利用っぽさはあるんだけど、どこにどう伝わるかというと、まあ、うーん。たぶん、批評がでてこないと、当人たちが考えているメッセージが解凍されないとおもうけど、でてこない気もする。

これ、象徴にたいするテロリズムであって芸術作品の破壊ではないから平和的な活動だとおもっているんだけど、問題はメッセージがまるで伝わらないという
https://news.livedoor.com/article/detail/24428309/

「過激な環境活動家の情報しか報道されない」から「環境活動家=過激」という印象が植え付けられるんだろうけど、「過激な環境活動家の情報しか報道されない」ということがまさに「知ってもらうには過激なことをやらないといけない」という思考にも繋がってるんだろうし、スパイラルだねぇ。

なんか悪いステレオタイプで申し訳ないけど、最近の「環境活動家」って過激な人のニュースが多すぎて、「自然環境を保全」せずにただ「芸術作品を破壊」してる人々というイメージになってしまっている自分 tony_neutral

>ジョブズの有名な言葉で「アップルは、テクノロジーとリベラルアーツの交差点にある」というものがある。ここ10年、デザインはテクノロジーにより過ぎて、リベラルアートの側面をおろそかにしているのではないだろうか。

とあるけど、おろそかにしているというか、まさに「デザイン」というジャンルの起源にあるアートを切り離す作業が、認知科学によるデザインについての議論だとおもう(ノーマンがこういう文脈でフランク・ロイド・ライトを馬鹿にしている)。
アートという出自に戻るのがいいかというと、ぜんぜんそうは思わない。ジョナサン・アイブもそうだけど、アートとかモダンデザインひきずっていると、いまだとどうやってもシミュレーショニズムになる。

あらためて読んでみても、読みまちがえる理由よくわからないな...。
ジョナサン・アイブがやった筐体デザインみたいな「象徴的な」仕事抜きにAppleは「デザインの力」を訴求できただろうか?デザイン思考からはそういう象徴的な仕事がでてこなかった、それはデザイン=問題解決という図式を作ってきたからだ。くらいしか言っていない。アイブの筐体デザインは問題解決ではなかったし、かつてデザインとされてきたものもそうだった、という主張にしか読めないんだけど。
これが共訳不可能性か...。

この記事で肯定的に言及されているジョナサン・アイブとかはもろにモダニズムデザインなわけで、そういう文脈差についての言及なのはすぐわかるんだけど、それが読めないのは、(それがポジショントークでないのなら)デザイン思考とモダニズムとの切断にあって、前者によって「デザイン」の概念が書き換えられた人たちが読むとそうなるんだろうな。

この記事に的外れな批判をしている人みたけど、実際「デザインは問題解決だ」っていう図式はここ20年くらいで浸透しているはずで、それの起源に人間中心設計とダブルダイヤモンドがあるんだけど、それより前がわからないんだろうな。デザイン史的な思考の欠如というか、それ以前の言語が切断されている。

マーク・ワイザーとジョン・シーリー・ブラウンがゼロックス・パロアルト研究所で1996年に発表した「カーム・テクノロジーの新時代(The coming age of calm technology)」はディストリビューテッド・コンピューティング時代のアテンションを考える上で必読文献。今週末の「〈視聴者〉の系譜」シンポジウムのドライブにアップロードする予定。
https://people.eng.unimelb.edu.au/vkostakos/courses/ubicomp10S/papers/visions/weiser-96.pdf

whenever someone gets excited about an image or text produced by machine learning, i immediately think of this embarrassing moment from a hayao miyazaki documentary seven years ago

... seven years ago, it became a metaphor for where we are now.

GA4がクソUIすぎる

マイノリティを実在的な対象をもったカテゴリーだとする操作が、いろいろ問題をひきおこしているんじゃないかという気がする...

「アイヌ」という名でもって客体化される仕組みが存在する、ということなんじゃないかと思ったり。これはアイヌに限ったことではないだろうけど。「和人/アイヌ」という区別は関係のなかで生じるけど、こういう関係を離脱した「アイヌ」という概念というかイメージというかが成立している、というような。

「アイヌ文化」という形で、境界付けられた「文化」というものも、資本主義の発達過程で生じるものという感じもある。マユンさんがもやもやしているのも、なんかそういう認知の枠組みのなかの「アイヌ」という問題な気はする。

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