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西谷啓治の『「近代の超克」私論』を読んでいるが、まじでヤバいな(いまさら)。国家による滅私の要求を宗教的な滅私とあからさまに同一視していて、すごい。

近代の超克、わりとどの論考も興味深いものがある

こういうのは、いまも残骸がたくさんある。

いはゞ当時の我国は少くも観念の上では絶えず西洋の「新知識」に征服されて来た。下手に自分でものを考へるより西洋の「進歩」した知識を借りて進む方が早道であった。そして所謂学者とは西洋の新しい知識を出来合ひのまゝ素早く輸入する問屋にすぎぬ者が大多数であつた。(中村光夫『「近代」への疑惑』)

「近代の超克」は、読んでてそうとうの根深さを感じる。
近年でも、批評空間の「モダニズムのハードコア」でアメリカ美術批評とかが紹介され、自分が大学にいっていたころは、外延もあきらかではないまま「モダニズム」とかポストモダンとかのことばが流行っていた。ただ、この80年代以降の話を「近代の超克」の周辺とくらべてみると、あきらかに政治的な保守主義がいない。美術批評にかぎっていえば、モダニズムもポストモダニズムも、アメリカの一時代前の批評状況を基盤として語られていたという印象がある(すくなくとも自分は日本の美術批評のアメリカ的な批評言語の発達につよい不満があった)。このへんは最近はまた事情がかわりつつあるとおもうけど。

「近代の超克」座談会でも、「近代」の語の外延がめちゃくちゃあいまいで、でもなんとなく、近代の超克という標語があって、そのなんとなくはみんな了解しつつ対立する。ある人は「近代の超克」という語をもって、ヨーロッパにおける近代の内在的な克服のことを指して語るし、そうではなく、文明開花という日本における近代化を克服しなければならぬと語るひともいる。
こういう問題意識のほうが、現代の美術批評の根無し草感よりもわかるんだけど、ある言説がどうやって成立するのかとか、そういうことが気になるし、根深い問題をはらんでいると感じる。

「近代の超克」座談会の一部

「近代の超克」座談会、やはり下村寅太郎だけめちゃくちゃ現代的というか、いまの視点からすると周囲の文学者連中がいかにも見えていないんだけど、これは戦争負けるよなぁ…みたいなことを思った。「近代の超克」が、魂にとっては機械文明が相手では不足がある、とかいうのは、思想とかそういうのしか見ていない。

河上 然し僕にいわせれば、機械文明というのは超克の対象になり得ない。精神が超克する対象に機械文明はない。精神にとっては機械は眼中にないですね。
小林 それは賛成だ。魂は機械が嫌いだから。嫌いだからそれを相手に戦いということはない。
河上 相手にとって不足なんだよ。
機械というのは家来だと思う。家来以上にしてはいかんと考える。
下村 それでは済まないと思う。機械も精神が作ったものである。機械を造った精神を問題にせねばならぬ。
小林 機械は精神が造ったけれども、精神は精神だ。
下村 機械を作った精神、その精神を問題にせねばならぬというのです。
小林 機械的精神というものはないですね。精神は機械を造ったかもしれんが、機械を造った精神は精神ですよ。それは芸術を作った精神と同じものである。
下村 機械を造った精神そのものの性格が問題ですよ。これは新しい精神の性格である。この精神は近代の我々の中に実際に事実として生きているから、それを単に嫌いというだけでは問題を避けているにすぎない。これは単に魂だとか、覚悟だけでは済まないと思う。そういう魂は謂わば古風な精神で、もちろんそのような精神は我々の底に必要であるが、しかし近代の超克という問題には機械を造った精神と同様にこのような単に古風な精神の超克も問題になるとおもう。前に「理性」も近代の理性は言葉を自己の表現とするようなロゴス的な理性ではなく、近代的な性格をもつと言いましたが、これはもっと一般的に言えば今の問題になるのですが、つまり「精神」や「魂」も近代的な変革を遂げていることです。今までは魂は肉体に対する霊魂だったが近代においては身体の性格が変わってきた。つまり肉体的な身体ではなく、謂わば機械を自己のオルガン(器官)とするようなオルガニズムが近代の身体です。古風な霊魂ではもはやこの新しい身体を支配することができない。新しい魂の性格が形成されねばならぬと思う。…

re: 「近代の超克」座談会の一部
「機械を自己のオルガン(器官)とするようなオルガニズム」って、サイバネティクスとか、マクルーハンによる「身体拡張としての技術」とかまで視野に入っている発言だといっていい。もちろん当時の下村寅太郎がそんなことを知るはずもないけど。
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尊皇攘夷は明治維新期のものだとおもっていたけど、この座談会のなかでは、反文明開化論として提示されていてびっくりする。これは現代的な問題でもあると感じる。

竹内好による「近代の超克」論考(1959年)は、大東亜戦争をどう捉えていくか、そのなかで文學界の座談会「近代の超克」をどのように位置付けるのか、戦争と思想の関係の理解としてかなり考えさせる、というかいまでも重要で未解決の問題をそのまま指摘しており、自分たちがたんに忘れているだけなんだということをあらためて考えさせられている。
https://www.amazon.co.jp/dp/4572001235

実態としての日中戦争は帝国主義であるにもかかわらず、英米への宣戦布告によって「反帝国主義」のストーリーが掲げられたとき、文学者や思想家たちはそのストーリーに、文明開化いらいの西洋文化消化の違和感を打ち砕くものを期待していた。こういうものは、いまも噴出しうるものとおもう。欧米へのコンプレックスと歪んだ自尊心の綱引きみたいなものは、いまでも無反省なまま存在するとおもっている。当時よりはましになっているというか、魔封波みたいなやつで封じこめられている。
https://pleroma.tenjuu.net/notice/AU53FLji17xmlX2Ray

廣松渉による「近代の超克」論、いまのところ京都学派とくに高山岩男の「世界史の哲学」の分析だが、当時の知識人にとって「歴史」という観念がひどく重要なのはよくわかった。
https://pleroma.tenjuu.net/notice/AU6rtHIL8hTDRMQgxU

まあ、西洋化を「進歩」とするような歴史意識があり、そのなかでも資本主義から共産主義へは直線的な歴史発展となると語られていたわけだから、西洋の歴史そのものを経験してきたわけではない日本人が、この歴史観に違和感をいだくのはそれはそう。

これとても今っぽいなとおもったけど、いつの記述だろう(週刊読書人1061号とあるけどバックナンバーの検索が困難)。

松本健一氏は(略)「日本的ファシズム形態」が成立したのは「ミイラとりがミイラになったのではなく、移入ファシズムを否定的媒介にしながら」自己形成をとげたものである経緯を顧みつつ、氏が「いまファシズムの危機を喋々したり、軍国主義の兆候を叫んだりしている手合いの多くは、一朝ことあればそのままの位相で、ファシズムの担い手になり」かねない事情を剔抉され、「それは本人たちによって当面ファシズムと呼ばれることはないだろう。それは新しい何かとして登場するだろう。(略)いえることは、その新しい何かはファシズムを否定するかたちで歴史の舞台に登場してくるだろう、ということだ。このとき、現在唱えられているファシズム否定論は、ほとんど役に立たないにちがいない。むしろこれは、これらファシズム否定論の多くをじぶんの見方にひきいれつつ登場してくるはずである」