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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

民族主義的イデオロギーで動いている国がイスラエルだけど...。日本が似ているといわれる理由は理解できる。こういうのはWW2以前の観念なんだ、というかロマン主義時代くらいの観念かもしれない。

韓国の政治はもっと勉強しないとなとおもったけど、わりと財閥対民衆という構図で動いているんだなとは思った。「民衆」であって「民族」ではない。ある意味継続的な内乱状態を抱えこんでいるけど、その分裂性を克服するものこそ民主主義で、民族主義だとアプリオリにこの分裂が消滅している(「国体」の統合性)。
日本のネトウヨが韓国をバカにする様を見ると、だいたい人種・民族にもとづいた偏見を語っているだけで、いかに日本が民族主義的観念が強いか思わされる。こういう民族主義的国家観はどこからどうみても戦前からの遺物なわけだけど...。個人的には、WW2以降に植民地から自立した国家はこの民族主義のレトリックを利用したものだとおもっていたが、実態としてはまったく違うんだな。

日本って戦前から帝国主義者でも反帝国主義者でも民族主義的傾向はあり、岡倉覚三は帝国主義者だけど民族主義者でもあり、インドとか中国とかで民族自立を煽っていた(その意味では反植民地主義)。柳宗悦も反帝国主義で民族主義。「国体」なんて持ち出さなくても国家=民族という観念がかなり強く浸透しているとおもう(いや「国体」があるから他国にも「国体」があるはずだとおもうのか?)。

韓国・朝鮮の建国に民族主義的ナショナリズムがあまり顔を見せないのすごいなとおもった。それが統一を阻むものでもあるのかもしれないけど。

自分が「シアスター・ゲイツは柳の植民地主義をあまり理解していないまま引用している、それも植民地主義的な身ぶりの反復だ」みたいな見解に違和感があったのは、ゲイツは実際に当事者たちと関わって、経済的互恵関係まで構築しているからで、柳らの民藝運動にしてもこういう性格があるけど、表象レベルでの批判にしか見えないからなんだよな。
「経済的互恵関係の構築こそ植民地主義の常套手段だ」っていう強硬な見解なら、まあわからんではないけど(いやわからないが)。わからないというのは、資本主義は地方経済の構造的な破壊をつうじて経済的植民地を構築するわけだから、ゲイツや民藝がやっている経済的互恵関係の構築をつうじて当事者の活力を作り出す運動は、基本的に資本主義に抵抗するものではある(と自分は考えている)。

柳宗悦はまさに「救済」の物語を語ったし、クリフォードによって批判されたMOMAのプリミティヴィズム展も「救済」を語った。「近代化した側」が「前近代的なものの価値を評価する」というのが救済の物語だった(これが美術館的な「保存」の欲望にむすびついている、クリフォードの批判では民族誌も似た機能をもつ)。
シアスター・ゲイツが「救済」するのはあきらかにこういうものではないし、じつは柳の朝鮮陶磁器の評価から「民藝」運動への移行には、当初は当事者不在の美術品評価だったのが、当事者をまきこんだ運動に変質していく過程があるんじゃないかと考えているので、クリフォードが批判する「救済」の型に一致していないとおもう。

「救済」の物語は『文化の窮状』でクリフォードによって批判されていたものでもある。

柳宗悦とシアスター・ゲイツの共通するところを探れば、「宗主国の立場から、被支配地の文化を評価する」というのがある(と批判する側は感じている)けど、柳との差異はシアスター・ゲイツがアメリカ国内では黒人という被差別的な属性にある。展示で民藝の年表と黒人の年表を並列していたのは、柳的な立場を無自覚に反復するためではなく、この立場の二重性を明示するためにあったはずで、そこに「アフロ民藝」という無茶苦茶なコンセプトの意義があるはずだ。
ゲイツは搾取的な構造にはかなり自覚的で、たぶん現に民藝に関わっている当事者になにかしらの利益(経済的とは限らない)があるようにしている。で、こういう関係(経済的強者が経済的弱者を「救済する」という関係になる)が「植民地主義的」かどうかはまあまあ重要な問いだろう。

もうちょっと立論が立体的であってほしかったという感想だった。というか、3をもっと掘り下げてほしい。
「柳や民藝は植民地主義的だ」という批判を前提に、シアスター・ゲイツはそれに無自覚すぎるという批判はしばしば見たもので、それにたいして異文化衝突に際してハイブリッド文化が生じるのが現実だ、では結論として弱すぎる。そのハイブリディティが植民地主義的な混血なんじゃないのか?つまりアメリカ人として「植民地としての日本」の「民藝」をいわば文化盗用的に流用しているのではないか?というのは当然あらわれる疑問で、その場合シアスター・ゲイツは柳の植民地主義的身ぶりを無自覚に再演していることになる。
この場合、評価する必要があるのは、柳および民藝はどれくらい「ハイブリッド」なのか、またそのハイブリディティのなかに植民地主義という背景がどれだけ関与しているのかということと、シアスター・ゲイツの同様の問題に対する差異だろう。今回の展示がどれだけ「民藝」的であり、「民藝」的でないかが示されるべきで、そういう操作を通さないと彼の「民藝」概念を換骨奪胎しての流用が、どういうものなのか評価できないとおもう。

光州事件前後から韓国の政治の流れをざっと見ているけど、まじで民主主義の国すごいな。

基本的に日帝時代に活躍した独立運動家は社会主義者や無政府主義者が多く、右派でさえ基本的に君主制を否定していました。その結果、左派によって樹立された北朝鮮も右派によって樹立された韓国も大韓帝国や朝鮮王朝を継承する事は無かったのです。

金大中の映画やってるのか
https://www.sumomo-inc.com/ontheroad

金大中ってめちゃくちゃ日本語うまいんだな...
https://www.youtube.com/watch?v=IiD4IaOVg0A

遊びたいのに16ビットだからって動かない…

そもそもいきなりシンボルから始めようっていうのが生成の順序として逆転しているんだよねっていうのが、アラン・ケイあたりが主張したかったことなんだとおもうけど(ピアジェにしたがって図形操作からシンボル操作に段階的に発展するという考えを採用していたはず)、プログラミングが記号操作だというおもいこみに縛られてしまうというか。

あー、記号接地問題みたいなのはたぶん80年代にAI研究とかのパラダイムを現象学寄りに転換するきっかけだったとおもうんだけど、対象が記号じゃなくて図形だとどうなのっていうのは、認知科学の古い伝統を掘り起こす価値がありそうな話な気がする。

という話で、作図エディタは連続的な変形というものをもっと気合い入れてサポートするべきなのではと思えたところがよかった

Diagrammatology途中まで読んでわかったのは、言語は離散的にしか変形できないけどダイアグラムは連続的に変形可能なのが特徴でパース的にも連続性が重要で

朴正煕は満州国軍の士官で、これは日本帝国の軍事組織ではあるが、日本軍そのものとも、その一部門である関東軍とも違う組織である。

というか、朴正煕のすごいところは、朝鮮人でありながら日本帝国の軍事組織に志願→米軍統治下の朝鮮半島の軍事組織に志願→共産主義勢力による武装反乱に参加→朝鮮戦争中に韓国軍に加入→韓国軍幹部としてクーデターを決行→韓国大統領に選出、という、何回転かわからないような陣営チェンジを華麗に行い、しかもどこでもしっかり出世してくるというところ。

裏切りをためらわない、妙に人に好かれる、実務能力がある、という何とも言いようのない人物だったんだろうと思う。

ピアジェがメルロー=ポンティの悪口言っている本はこれ
https://www.amazon.co.jp/dp/4622051346/

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