アムネスティの署名です。べらぼうな話なのでさすがに。。
まだ首班指名されてない以上、石破茂は単なる一政党の総裁に過ぎず衆院解散について何の権限もないのですが、何を勝手に表明してるんですかね?
憲法に則った適正な手続きという点だけは石破体制下で少しはマシになるかと思っていましたが、全く期待できなさそうですね。
石破総裁、10月27日の衆院選投開票を表明 野党は論戦求め反発
https://www.asahi.com/articles/ASS9Z24TVS9ZUTFK009M.html
ニナ・メンケスの「クイーン・オブ・ダイヤモンド」を見たとき、西澤諭志さんの映像作品を思い出していた。
メンケスのほうが30年くらい早いのですが。
さいきん読んだ、
佐々木友輔/風景のスクリーン・プラクティス
第1回 中平卓馬と西澤諭志の権力=風景論[前編]
http://www.kaminotane.com/2024/09/27/26081/
では中平に終始してまだ西澤さんの作品については語られていないが、中平については妥当なことが書かれているように思う。
風景を切り裂く、とか、ヴェールをはぐ、とか、プロヴォーグ時代の中平の言葉もマッチョな方法論は、けっきょく美しくなってしまう。
権力としての風景を前景化するには、速度を落とすことがいちばん有効なのではないか。メリハリをつけないこと(植物図鑑のように)
それをクイーン・オブ・ダイヤモンドを見ながら思っていたのでした。
https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/318352
「献立の悩みは、近代になって「主婦」と「家庭」が成立したときに生まれた。田舎でも都会でも手に入る食材が限られ、台所にかまどがあった時代は、日々の料理にそれほど変化はなかった。家にシェフがいるような上流階級では日替わりの献立を食べていただろうが、庶民はレパートリーも限られていたし、毎日工夫を凝らす余裕もなかった。 国民の大半を占めていた農家では、料理は一年のサイクルの中に組み込まれていた。畑で採れた野菜で漬物をつくり、味噌を仕込む時期がある。その日のご飯をつくる。難しいのはコメをいかに失敗なく炊くかで、失敗したご飯を再生する料理もあった。コメを一年もたせるため、雑穀やいもを一緒に炊く主食のレパートリーは豊富だった。そして、家の嫁を主婦とは呼ばなかった。 主婦、家庭という言葉が広まったのは、日清・日露の戦争をきっかけに産業革命が進行し、都市部でサラリーマン層が生まれてからである。一人で台所に立つ主婦たちは、日々献立を立てて食材を購入しなければならなかった。」
—『小林カツ代と栗原はるみ―料理研究家とその時代―(新潮新書)』阿古 真理著
https://read.amazon.com/kp/kshare?asin=B0178ZVEYU&id=3iz32nzt3rb2popzem4j3mrwl4
これに引っ掛かってるのは岡野八代の『ケアの倫理』からの流れで、ケアって確かに生産と並ぶ重要な人間の行為なんだけど、生産労働はアート・作品へと昇華していくコースがあるけど(「疎外されない労働」みたいな話でもいい)、ケアに関してはそういうストーリーが目に入らないような気がして、そこはどうなんだろうと。
ロボット掃除機を分解清掃したら、今は亡き老猫の毛がたくさん出てきて、あらまあ、こんなとこにいたの〜、と思った。それはただの毛で本体はそこにはいないんだけど、というかもうどこにもいないんだけど、いないからこそ、痕跡であっても「いた」と感じてしまった。
アーレントは繰り返しで成立する労働の領域を私的な領域に囲い込んで下げているのは、たぶん英雄的な行為の推奨にしかならない気がして、たしかに問題ある。
人間の感性を回復するにはどうすればいいかみたいな課題になるのかな。
アーレントは仕事のうえに行為の領域があったと思うけど、繰り返しの効かない英雄的な行為を称えるみたいな領域で、ここがアーレントにとって芸術だった気がする。
ベンヤミンと繋げると、逆のことを言ってそうというか、アーレントはギリシャの演劇をモデルに芸術の観念を組み立てているから「行為を称賛」することになるけど、ベンヤミンのアウラは時代についての認識で、議論の目的としては映画とか複製技術が資本に支配されているからダメなんでそれを民衆が支配し直せば革命的に再利用できる、みたいな議論だから、少なくともギリシャ的な芸術観は退けている。複製技術時代におけるありうべき革命的な芸術についての議論。