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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

結局、マイノリティで気持ち悪がられていた「オタク」が、クールジャパンだなんだと持ち上げられてマジョリティの一翼になったら、マジョリティの座にあぐらをかいて威張るようになったのが実態で、しかもその結果文化的創造力を失った、ちょろい消費者に堕したのではないかと思うのです。

「左派運動家」が、野間氏にオタク=ネトウヨと腐されたからといって(それ自体そんな影響力があったとも思えませんが)、それで右派に転向するなら、その人はもともとそんなもんだった、ということじゃないでしょうか。普遍的な人権概念に関心は実はなく、「オタク」さえ地位向上すればよかった。

そういう「オタクは偉くなったんだ!だから俺はエラいんだ!」という困った「オタク」がネットで悪目立ちし、「表現の自由戦士」と揶揄され、また今や「暇アノン」と称される社会的害悪を垂れ流す存在にまで堕落しているようです。そのコアゾーンは若年層ではなく、30代後半から50代くらいでは。

クマがカモシカを狩る映像、すごい
https://www.youtube.com/watch?v=m6u_4s1tJfU

なんかもうすごいな...
https://artmind-japan.com/amccoach-trial
いや対話型の鑑賞はいいとおもうんだけど...

美術史研究やるんだったら展示というものは不要で、美術史の学会で論文を発表すればいいんだけど、美術史研究的な内容を展示するということはかなり位相が違っている。美術史研究と展示のあいだにある差はキュレーションと呼ばれる行為としてあるけど、「美術史研究」的な体裁をまとうことによって、あたかも「キュレーション」が不在であるかのように見せかける展示がけっこうある。編集による取捨選択でなにかを不在化させるという操作をしているのに、その操作がまるでないかのように振る舞う。「美術史研究」的な体裁の展示も、ブロックバスターもその点で同じで、それが議論を閉じたものにし、ある種の自閉性のなかにみずからを置くことになっている。

というようなことを、昨日読んだこれについて考えながら思った。著者の考えとしては、ミュージアムは意味生産の場としてあるべきなんだけど、そういう機能が脱落して「ハコ」化している。それはキュレーターや学芸員が責任をとらない、展示の閉鎖性を自明のものとしてしまうことにあらわれる(この論考は会田誠『天才でごめんなさい』展の分析が中心だけど、その閉鎖性は展示のタイトルに最初からあらわれている)。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/comm/45/1/45_47/_article/-char/ja/

「アジアのキュビスム」というのはたいへんバカげた話で、そうなんだけど、それを提示してみることは「キュビスム」の範疇からなぜそれが排除されるのかという問いを開くことになる。というか20年前にまさに「アジアのキュビスム」という題でそれが問われたのだった。ポストコロニアリズムやフェミニズムは、こうした閉鎖的な構造にたいして問いを開くための介入的な実践としてあるはずで、「なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか」というリンダ・ノックリンの問いは既存の構造の閉鎖性をあきらかにするためにある。

というか、自分の関心はたぶん、歴史を対象としていようといまいと、美術の展示というものがいかに議論を喚起できるかという点にあって、そういった「問いを開く」みたいなことこそ美術館の役割だ、と自分が信じているからなんだな。「歴史的事実として正しい」ことを展示として反復されると、閉じたものとして感じられる(専門家しか参加できないのだから、それはそう)。歴史を対象とした展示は、自己への閉じ籠りが容易に発生するけど、それは鑑賞者を強く排除している。植民地主義うんぬんとかもあるんだけど、議論や問いが開かれているかどうかということが重要で、問いに開かれていないキュレーションの態度というものがいつもひっかかっているのだとおもう。

歴史を対象とした美術展って、過去のある地点に存在した政治的・階層的な構造をある程度反復することになるので、現在の価値観とのギャップを評価したうえで展示を考える必要があるとおもうんだけど、美術史家はまじでそういう関心をもっていない。

キュビスム展の図録、ほんとに「目配せ」という感じなんだよな。プリミティヴィスムの見解としては、論者にもよるけど、1984年のMoMAのプリミティヴィズム展でのルービンの見解をほぼ反復している。フランス側の執筆者がとくにそうで、「大地の魔術師たち」展とかポンピドゥーだったとおもうんだけど、あれはなんだったのかという気にはなる。

【イスラエルのレバノン攻撃に対するトルコの反応】
トルコ国務省「イスラエルのレバノン攻撃は、地域全体を混乱に陥れようとするイスラエルの取り組みの新たな局面だ。イスラエルを無条件に支持する国々は、(イスラエルのベンヤミン・)ネタニヤフが政治的利益のために血を流すのを助けている」

https://www.aa.com.tr/tr/dunya/turkiyeden-israilin-lubnana-yonelik-saldirilarina-tepki/3338815

おもしろかった

「制度としての美術館」と作品の意味・可視性 森美術館における会田誠回顧展と「ポルノグラフィー」論争
藤巻 光浩
https://www.jstage.jst.go.jp/article/comm/45/1/45_47/_article/-char/ja/

西洋の近代観って単一の「近代」があるという観念だから、彼らからすれば「アジアのキュビスム」なんてニセモノなんですよね。「日本の科学」とか「アフリカの科学」というものはない、科学は単一のものだみたいな観念。多数の「近代」があるという観念は受け入れられていない。

「キュビスム 美の革命」展、プリミティヴィズムへの目配せはけっこうあるんだけど、ロシアアヴァンギャルドやイタリア未来派とかシャガールとかまで「キュビスム」の範疇として扱うけど、たとえばアジア圏のキュビスムとかは一切扱われず(萬鉄五郎とか)、西洋中心主義をあますところなく体現している

カーク・ヴァーネドーの文章くそつまらんな

もうちょっとなにかあるのかとおもったけど、なんもねぇな

情況の件、聞いてみているけど、塩野谷はけっきょく両論併記をぐにゃぐにゃ言い直しているだけで、凡庸そのものというかクソという感想しかないな...
https://x.com/i/spaces/1kvJpbLjjkOKE

ああ、これはそういうところあるかも。

重要なことは男性とそれ以外の對立のみが存在してをり、女性とトランス女性の對立が存在してゐるのではないと云ふことである。

男性の消失|東8番 https://note.com/osten_acht/n/nace0e61abbe1

この文章を靖国神社の戦争正当化博物館の入り口に刻みたい。
特に最後の文はぐうの音も出ないだろう。

> ちなみに、沖縄の嘉手納基地からは、ベトナムを「解放」するためではなく、爆撃のために戦闘機が出撃していました。

この文章を読んだら、日本のアジア侵略のことを、良い目的のための善行である、と誤解している右翼の目も覚めるのではないか。

https://x.com/vplusasia/status/1836359239985717395
ただし、当時の大日本帝国はベトナムを解放したのではなく侵略しました。フランスの植民地支配と重なる形で統治したため、ベトナム人にとって二重の搾取を受けることとなりました。

日本の敗戦はベトナムに独立のチャンスをもたらしましたが、それは日本がベトナムに「解放」をプレゼントしたわけではなく、日本の失敗の結果にすぎません。日本が侵略しなくても、ベトナムはフランス軍を追い出したはずです。アメリカとの戦争においても、日本の「解放」がなくてもベトナムは勝利を収めたことが、その証拠です。ちなみに、沖縄の嘉手納基地からは、ベトナムを「解放」するためではなく、爆撃のために戦闘機が出撃していました。

国連 イスラエルに占領状態終わらせるよう求める決議 採択 | NHK | 国連
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240919/k10014585451000.html

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