バーネット・ニューマンを売ったのもこういう体質なんだな
DIC、川村記念美術館を休館へ 資産効率で投資家が要望 - 日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC277KZ0X20C24A8000000/
DIC、川村記念美術館を休館へ 資産効率で投資家が要望 - 日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC277KZ0X20C24A8000000/
内面を語るための言語がかつて重要だったのは、検閲との距離においてだよね。権力は言語の統制をつうじて精神の内部にまで介入する。いまもそういう問題はないわけではないけど、言語をとりまく環境はあきらかに変化している。
つーかSNSの大規模化はまさにこうした文化人のペルソナをぶち壊してきたといえるか。仮設された「文学的言語」なるものも、もはやインターネットミームとして消化されるよりほかない糞味噌環境のなかで、あえて現存の回路に回収されないような言語で語ることはできるのか。
SNS含めて外に出された言葉と、内面的な言葉(というものがあるとして)が一致するという前提で書いているのは作家っぽいといえばそうだけど、作家ってどっちかといえば社会に出す言葉はペルソナとして言い切っているような気はする。「文学的言語」なるものがあるというのも、言語環境に対するパフォーマンスとしてありうる。そんなものが先んじてあるわけではないけど、そのような「文学的言語」を仮設してしまえば、それなりの効果は発揮できる。
https://www.asahi.com/articles/ASS8V026WS8VUPQJ006M.html
言葉の通じなさにぶつかるたび、リベラルな言論まで含めて、この社会全体のカルト化が進んでいるように感じます。
11年たって、この傾向はもはや日常化している。日本だけでなく、世界中で。私が期待した、個々人が自分は何に依存しているのかを探るという作業は、あまり進まなかった。
こういうのを、内面に求めるのが意味わからないんだよな。個々人が依存しているのはSNS含めたメディアじゃないの。
星野氏の記事、リベラルが云々とかしょうもないこと書くからつっこまれているけど、言葉が消費される環境ができあがっており、その環境においてはどのような言葉も消費される商品にしかならない、ということにちゃんとフォーカスして書けばよかったのに。
かつて埴谷雄高はこう書いた。
「これまでの政治の意志もまた最も単純で簡潔な悪しき箴言で示すことができるのであって、その内容は、これまで数千年の間つねに同じであった。
やつは敵である。敵を殺せ」
(「権力について」1958年、『幻視のなかの政治』所収)
この階級政治の原理が「敵を識別する緊張が政治の歴史をつらぬく緊張のすべて」(同上)をはらむのだが、ではその〈政治〉をえぐる「文学の言葉」は、星野寄稿にあるのだろうか?
分析美学関連の本も流行ってたからいくらか読んだけど、おもしろさが1mmも理解できなかった。なにやりたいのかさっぱりわからなかった。なに、用語の整理屋かなんかなの?以上のイメージがなにも生まれなかった。
さすがにダントーのアートワールド論はつまらないというほどでもないけど、ダントーの主張は全体的にまじでつまらなかった。文章がつまらないのもある。
さすがにダントーのアートワールド論はつまらないというほどでもないけど、ダントーの主張は全体的にまじでつまらなかった。文章がつまらないのもある。
CEDECでの講演「ゲームとセクシュアルマイノリティの表現の過去と未来」をお茶缶さんがGame*Sparkで記事にしてくださっていました! 作品画像なども揃え丁寧に記事化していただいており大変ありがたいです。気になっていた方はぜひ〜。
https://www.gamespark.jp/article/2024/08/26/144479.html
ようやく見つかった、読んだのこれだ
https://www.watch.impress.co.jp/docs/topic/1268820.html
https://www.watch.impress.co.jp/docs/topic/1268820.html