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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

実際問題、IMEって独占に近づけば言葉を変容させることが可能になるよな

大企業IMEによる思想表明の「検閲」を許すな!漢字変換をやめろ!!

芸大はアートプロデュースとかキュレーションとかまわりにポスコロ関連あるな、修士にもある。あとストレートにジェンダー論というのがある。

武蔵美の修士のシラバスざっと見てみると、ポスコロとフェミニズム関連はゼロなんだよな。学部にはいくつかあるけど。いまの美術とかどうやって理解するつもりなんだろう。

AI研究ってもともとは人間の知性のようなブラックボックスに対して操作的な定義(知性とはかくかくの振る舞いをすることである)を与えるためのモデルを作ること(操作的定義を満たすためにしかじかの構造がある)が目的だったとおもうのだけど、たぶん deep leaning から機械の中のほうがブラックボックスでもいいやみたいなのになっている気がしており、道具としては使えるけど説明可能性は後回しみたいな状態が続いてしまっているのかなと適当に思っている(こんな適当なこと言ってていいのか)

これは途中から有料会員しか読めないのだけど無料部分だけでも結構な分量があって面白い。みんながAIという言葉を巡って違う話をしているということがよくわかる。

MIT Tech Review: 「人工知能」とは何か? https://www.technologyreview.jp/s/341147/what-is-ai/

最近はしばらく、あまり知られていない領域の一次資料を詳細に検討しているんだけど、すごく回り道をしてようやく一つの一次資料から事実らしきものを抽出できるようになる。いくつかの資料を組み合わせてみてはじめて言えるようになる領域があって、そういうのがわかるようになると「歴史ってめちゃくちゃおもしろい!!」ってなる。「事実」というものはあらかじめそこにありのままにあって、それを発見するわけではなく、資料を解釈するための合理的枠組みみたいなもので、人間の知性は資料解釈のための枠組みを構築することができる。
こういう資料解釈の枠組みの問題もなんだけど、もうひとつは、一次資料の信頼性の検討とかもコンピュータにできそうな気がしない。「ある絵が贋作かどうかを検討する」というのも一次資料の信頼性の問題で、人間もかなり間違うんだけど、これはマジで勘の領域だとおもう。「文献上はこの人が描いたという資料が見つからないけど、この絵は本人のものだとおもう」みたいなのはかなりあるはずで、これを否定する合理的な理由がなければ受け入れるかな。でもこの判断規準はかなり曖昧だとおもう。

おもしろい。
インターネット上の「事実」(言い方が難しいんだけど)について、一時期真面目に考えてたことがあるけど、それはまさに「データの出所と信頼性を把握することが欠かせない」のだけど、その検証は原理的に可能なのだろうか?みたいなことを考えていたからだった。
https://www.technologyreview.jp/s/342345/ai-trained-on-ai-garbage-spits-out-ai-garbage/

“ネイチャー(Nature)誌に発表された新たな研究によると、AI生成のデータを使ってAIモデルを訓練すると、モデルの出力の品質は徐々に劣化するという。後続のモデル群が生成した出力データが将来のモデルの訓練に使われるようになると、その影響は悪化の一途をたどる。”

これは別にAIに限らず人間にも起こってる。つまり、ググれば答えにありつけるという態度で学習し続けた結果のツイッタランドであり、そういう環境で育った学者、知識人による書物がそうだ。

次の世代がネットに依存するのは劣化につながると判断して書物に回帰したとしても書物が既に汚染されている。

書物は先行する書物に対する解釈を含むから、ある時代の書物をパスして学習しようとしても汚染された書物の影響を排除するのは不可能だ。

MIT Tech Review: 生成AIのデジタル劣化問題、ゴミがゴミを生み出す最悪の未来 https://www.technologyreview.jp/s/342345/ai-trained-on-ai-garbage-spits-out-ai-garbage/

「生物学的女性」みたいな観念が産出されてしまうのを見ると、戦前の「人種」観念とやっぱりほとんど同じにしかおもえないんだよな。スポーツがこういう観念を生み出し、強化するのはなぜ?

そもそもパリオリンピック、12歳までに性転換手術をした場合のみトランスジェンダーの出場が認められるという、わりと差別的な規程があるっぽい
https://www.newsweekjapan.jp/stories/culture/2024/07/post-105020.php

〈続き〉

 これは(競技)スポーツに支配的な自然/不自然な身体のあり方を決定しているのが誰なのか、そうした規制はなぜ(特に途上国の)女子選手にばかり(チャンド、セメンヤ)かかるのか(疑われた"選手は、性器の形状や毛の生え方まで検査されている)という点で、言わずもがな「女性」の範囲を決定しようとする権力に対するジェンダー、フェミニズムのテーマである。トランス排除の理論に利用している場合ではない。
 喜んでヘラヘラやっているうちに、味方のはずの誰かがくるりと振り向いて「そういえば君も関節がでかいね」「腕に血管が浮いてるね」「なんだか骨盤が狭い気がする」と問い始めるのは自明ではないか。そのときになって「何言ってんの、そういう女だっているよ」と言い始めても遅いのである。

 ローリングが焚き付けて日本の悪質なアカウントも追随している、パリ五輪の「トランス女性選手」叩きが止まらない.....が、今回の五輪にトランス女性の選手は参加していない(https://www.thenation.com/article/society/trans-athletes-paris-olympics/?fbclid=IwZXh0bgNhZW0CMTEAAR0txjI83L7yX9vIKFX6RTWPtntsf-BvKIgQwIPmMjyE1aryeW5iJ3TFAJo_aem_yPIxSnCzi9THKE60NFXQ7g)。

 たかだかテストステロン値が過去に引っかかっただけの女子選手が、世界中から「男だ」と糾弾されているのは凄まじい光景だ。そもそもなぜ、赤血球が多くて疲れにくいマンティランタは「ラッキーな遺伝的体質」なのに、身長2m超えのバスケ選手はアンフェアとは言われないのに、同じ「自然」な体質の女子選手は「逆ドーピング」をしてまでT値を下げろと求められるのか。〈続く〉

アルジェリア独立60年、歴史語らぬフランスに憤る仏国内の移住者…植民地時代の負の記憶に苦しむ両国:東京新聞 TOKYO Web
https://www.tokyo-np.co.jp/article/187560

About Face、旧版の翻訳が異常金額だったけどようやく新版の翻訳でるんだ
https://amzn.asia/d/0ij22XWQ

「松井一實広島市政による原爆ドーム周辺での入場規制・「表現の自由」圧殺に反対する緊急共同声明」 https://www.change.org/p/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E4%B8%80%E5%AF%A6%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82%E6%94%BF%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E5%8E%9F%E7%88%86%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%91%A8%E8%BE%BA%E3%81%A7%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%A0%B4%E8%A6%8F%E5%88%B6-%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1-%E5%9C%A7%E6%AE%BA%E3%81%AB%E5%8F%8D%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E7%B7%8A%E6%80%A5%E5%85%B1%E5%90%8C%E5%A3%B0%E6%98%8E?source_location=psf_petitions

教育勅語を教育に使おうとする松井市長ならではというべきか。表現する自立した市民より、お上に従順な臣民を求める意識が垣間見えます。多くの方のご賛同をお願いします。

芳年が同時代のヨーロッパ芸術に影響を与えなかった理由がわからない

サイードのオリエンタリズムの場合だと、西洋は変わらないことを前提としてオリエントを研究するのがオリエンタリストだけど、ジャポニスムから20c初頭のアヴァンギャルドに対するアフリカ彫刻・オセアニア彫刻の影響は、西洋自身が変化を志向する中で咀嚼されているという点でサイードのオリエンタリズムとの違いがあり、サイードの議論の有効性の範囲ははっきりしている(いまさら言うまでもないことな気はするけど)。サイードのオリエンタリズムとはイスラモフォビアのことだと言ってもいいのかもしれないけど。

ジャポニスムがはいってきたとき、ヨーロッパの人は「日本人の自然観がすごい、自然をなんでもありのままに描く」みたいな受け取り方をしたみたいだけど、これ自分には北斎と広重をもとに一般化しているように見える。北斎や広重が日本を代表する芸術家だとしても、「日本人の自然観」を代表させるのどうなの?っておもっちゃうけど、彼らは北斎や広重の背後に「日本人の自然観」を読みとろうとした。
西洋の芸術体系のなかにあるもろもろの観念的な体系を相対化するはじめての体験がジャポニスムだったんだろうな。彼らは日本を理解しようとしたけど、それはほとんど創作に近い「日本」を構築することだったようにおもう。

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