それに、ファンや視聴者との共創で作られる作品の議論は2000年代初頭の古典かつ楽観的UGC論そのままであまりに反省がないと思う。ファンとVTuberの共創と言う形で制度としてのVTuberを語るとき、それを動かすプロダクションやYoutubeのようなプラットフォームは透明化される。これはダントーやディッキーのアートワールドの悪いとこなのでベッカーのアートワールドの方も見たほうがいいと思う
@_yonatsu VTuber論のときに松浦知也さんが指摘してた論点(このへん https://social.matsuuratomoya.com/@tomoya/112477093952869933 )は、この論文で挙がってるベッカーとかに関連するやつですね [参照]
https://jp.quora.com/%E3%81%AF%E3%81%A6%E3%81%AA%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%8C%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%A0%E3%81%A8%E6%80%9D%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%81%8B/answers/1477743773526395?comment_id=414750215&comment_type=2
単純な量に還元するランキングアルゴリズムがはてブのホッテントリで、質を評価するアルゴリズムがない。モデレーションって実質的にはそのコンテンツの質をどう評価して、質の低いコンテンツの可視性を下げていくことにある。量的な評価体系じたいが、人間性を毀損しつづけているんだとおもう。
https://sizu.me/mopigonia/posts/fabo8ihh1nrd
@_yonatsu 「素朴さ」の口実としてのアーティスト像を求める人は多く、さらにはアーティスト自身がそのイメージをなぞる循環もあるので、ますますファンダムと作家がともに「これが正しいんだ」と信念を強化するエコシステムを作りがちに。
@_yonatsu アーティストを称えるようでありながら、単にイデオロギーを通すための方便にしている人って本当に多くて、「作家がこう言ってるから」でファンダム内を自治する仕草と一体化してるんですよね。
でも、その行為は実際には、作家をリスペクトする体でありながら、とことん馬鹿にする振る舞いにもなっているという。
@_yonatsu ああいうのって「ゆえに「そこまで考えてない」自分を肯定する」というふうになってて、自分のアバターとしてアーティストを利用する振る舞いだと思うんすよ
プライドってなんだろう。どこにあるんだ。https://www.47news.jp/11055580.html
YMO~コーネリアス的な対外緊張と自虐ですらないのか~、というのが今回のMrs.のインパクトかもね。そこに日本のテレビ的~お笑い的秩序がどっぷり関与してそう。
イデオロギー秩序の本体はこういうテレビ的~お笑い的~広告業界的な「意図された素朴さの暴力」なのか?とも思う。
https://twitter.com/umeboshigohan/status/1801145775537442988?s=46&t=X2RUQ4Qbb8-DRqOgpyhdjg
小山田圭吾のコーネリアス自称(コーネリアスは猿の惑星の猿キャラ)は、YMOと同じく、イエローモンキー扱いされてる日本人がセンスと技術でお前らをぶっちぎるんだが?と挑発する手口で、センスで勝つのを織り込み済みで機能するケレンだよな~、と思い出した
「なぜその表現や態度がよろしくないのか」を理解させて、今後同様のことが生じないようにするのが目的なはずなのに、なぜか「お前は無知で馬鹿でクズでどうしようもない奴だ(それに引き換え自分は......)」という他罰と自尊がごちゃ混ぜになった投稿をすることで満足してしまい、本来の目的から離れていってしまう。そんな事象がTwitterを筆頭としたSNSでは常に起きている。
「コロンブスは新大陸を見つけたすごい人」という認識が世間一般のスタンダードであり、それが植民地支配や先住民の絶滅に関係する事柄であるという認識を持っているのは、極々少数でしかない。ソースは私。私は法政大学を出ているある程度の知的エリートだけど、修士に進まなければ前者の認識でとまっていたので。同期の多くは植民地支配という言葉は知っているかもしれないが、それが意味する「重さ」については知らないだろう。
ユーザー数でいえばはてブなんかみたいな場末SNSより多いと思うけど、メッセージの増幅はしないので、やっぱり設計の問題だろうな。