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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

いまさらだけど、キクマコとか雁琳とかは日本版のトランプ現象か

ぜんぜん気付いていなかったけどすえなみさんの話聞きにいきたいなこれ
https://kichijojipm.connpass.com/event/316361/

テメエでケツもてよって感じだけど、影響力のある馬鹿をおだてて持ち上げて反対派を暴力で黙らせるってだけじゃん。言論なんて1mmもない。

呉座はケツわったとかすごすぎるな。鉄砲玉ってわけですね。気持ち悪い。

とはいえ、オープンレター叩きがなくなったわけではありません。むしろ先月の、呉座さんの件で尻馬に乗って北村紗衣先生を誹謗中傷していた雁琳なるHNの元京大院生が、かなりの額の慰謝料を命じられた判決では、敗訴にもかかわらず「不当判決だ!」と北村叩きが盛り上がっていました。

ところがこの北村叩きの雁琳支援の声の中に、注目すべきものがあるのです。それは、対オープンレター名誉毀損訴訟を敗北的な和解で終わらせた呉座さんを、敗訴した雁琳と比べて「ケツ割った」と非難する連中がかなりいるのです。そのような非難の一端を画像にまとめてみました。これはひどい。

この画像は、kafkaesque さんのブログ(https://kensyoiinkai.hatenablog.com/entry/2024/05/14/071028)に収集されていたものを拝借しました。自分でも少し集めていたのですが、こちらの方が網羅性が高かったので。ここで記して感謝の意を申し上げます。

BT これはすげーある
忙しいから仕方ない、とか

大人が「これは業務だ」と割り切ると全てを遮断してしまえること。正当化してしまえること。それは現代の資本主義に見合う身体として適応させてきた結果なのだろうけど、その結果が今のこの惨状なのだよね。

言葉というものは怖いものだとおもっている
ある表明をすることによって、自分が安全な立場にいるよう錯覚することができてしまう

ガザの情勢については、自分はいつもうしろぐらいものを感じている。
このうしろぐらさは、いつも自分に意見表明をさせようとしむけるけど、それは自分がうしろぐらさから解放されたいだけだから、そういうのはやらないようにしている。

もう自分には bot と人間の区別がつかない

Twitterで定型的な言動を繰り返す何者か(それが人間であるととうてい思えないのだけど...)、個人として振る舞っているようにはぜんぜん見えず、群れとして振る舞っているように見える。というかそこの好んで同一化しようとするのがたくさんいる。インフルエンサーみたいな存在が、そういう群れの特性を把握したうえで行動し、それに適応してきたプラットフォームだから、ますます群れとしての性格が強化されていくのだろうという未来しか見えない。

しかし、Twitterの2ch化というか、ヤフコメ化といったほうがいいんだろうけど、おもったよりめちゃくちゃ早かったな。もともとだろっていう意見もあるけど、この1,2年はアリかなんかの群れの振る舞いを見ているような気持ちになる。アリに失礼かもしれない。

彼らは自分自身が論理的であるかどうか決して検証することはない

相手を「非論理的」だと非難している人たちの語彙にはほとんど「頭が悪い」の罵倒もある

「感情的」より「論理的」のほうが価値があると感じられるのは、身も蓋もない事言うけど「頭がいい」ことに価値があるとみなされる社会だからだと思う。「頭がいい」ことに価値があるわけじゃなくて「価値があると見做されている」なんだけど。

自分もそうです
経験上「論理的」に見えるように話すとけっこう嫌われる(マジ)

これは俺もなりがちなんだけど、なんで「感情的」よりも「論理的」の方が良いとされてるかはよくわかんないんだよな。俺もなんとなく後者の方がいいと感じていて、つとめてそのように振る舞おうとする場面は多いのだけど、本当は感情的なのにそれをひた隠しにしようとする自分がなんだか滑稽に思えてくることがよくある

Twitterの炎上っぽい話を見ていると、「批判している私は論理的だが批判されている側は非論理的(感情的)」というパターンが短期間で繰り返されていて、自分を「論理的」だとおもいこんでいる人たちがこんなにたくさんいるんだ!という新鮮な気持ちになる(ならないが)。

オープンクラス、全言語に存在してほしい

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