青木亮人『教養としての俳句』、序文で「ドイツ文学の伝統的なジャンルに、教養小説(Bildungsroman)があります。(……)自分が最も自分らしいと感じ、納得するために自身を磨き、まだ見ぬ「私」に出会うために勉学や人生修行に打ちこみながら心の襞を深くし、人格を陶冶するのが「教養」なのです。」(p.6)と筆者にとっての教養の位置付けを語っているのがいいなと思った。日頃、よく「今さら訊けない!」「知らないと恥ずかしい!」くらいの煽り文句として教養という言葉が扱われていると感じるので。
「快適な消費者体験を得られるディストピア」では、結局他人に関わらなくて済んでしまう。個人による政治へのコミットメントというのは、あらゆる他人に対する具体的な踏み込みそのものであるわけで。オンラインであるかオフラインであるかみたいな話は別に大した問題じゃなくて、他人との関わりについて自分が何をどのように引き受ける/引き受けないのか、ということこそが問題。
IoCにおける依存解決エンジンのことをIoCコンテナ=DIコンテナと呼んでいたのが、いつのまにかDI(依存性注入)という概念だけ取り出されていて、その抽象概念の説明をしちゃっているんだけど、話が逆転していないか。この話を逆転させたのはボブおじさんだとおもうけど。
* 外国人が捨てる
* 犯罪者やテロリストがゴミ箱に犯罪的なモノを入れる
* 常識ない人が家庭ゴミを捨てる
どれも「悪いやつが常識のない行動をする」みたいな思考で言っているんだとおもうけど、捨ててるのはなんでもない人だとおもう
今も、海外在住派のインフルエンサーの1人の方がTwitterで、諄々と理を説いて、「日本にゴミ箱が足りないことが原因なんですよ。こんな国は他にありませんよ」と一所懸命説明されているのを見かけたけれど、一旦思考回路がおかしな方向で固まっちゃっている人たちには、どんなに丁寧に説明しても、極々自然な論理の帰結の方向への出口が塞がれちゃってるので、多分、説明するだけ無駄なんですよ。本当に…。
私はそのような人たちの面接を何年もかけてやっているので、その徒労感が如何ほどか、もう本当に身に沁みて分かるのですが、それだって面接だったら遅々として進まないように見えても、多少なりとも変化は起きるんですが、普通の日常会話では、多分、とてもとても大変だと思う。私なら最初からやりたくない。
https://artnewsjapan.com/article/2211
川崎重工も、神戸製鋼も、ともに売上高過去最高、という一般市民にとってはわけがわからないニュースが出ているときだからこそ、署名を拡散させましょう!
このオンライン署名に賛同をお願いします!「川崎重工はイスラエルの軍需企業との輸入代理店契約を、ただちに破棄してください!」
https://chng.it/npjjDMDD6y