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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

そういえばオンラインMTGをしていて年代によって顔を見せるかどうかがあり、若い人たちは顔を出さない、アラフォー以上は顔を出しがち。
これ年とともに面の皮があつくなり、顔出しに抵抗なくなることが中年の証...?とかおもっていたけど、考えてみると学生の回線の細さというのがありそう。

月5000円だと20GBを2回線でもおつりがでますね
https://mineo.jp

いま2019年にしたドコモの料金契約で毎月7GBで4980円取られてたんだけど、ahamoっつうのにしたら月額2970円で20GB使えるんですって?

等間隔な時計は労働者の身体を時間で拘束するための資本家の陰謀ってコト?

江戸時代の「時刻」、日の出日の入りを基準に6分割してるので、サマータイムを導入するまでもない。
……季節どころか日によって「1刻」の長さが違うけどな!

言葉を変えて言えば、ハイデガーにとって世界とは組み立て可能なものとしてあるのではなく、組み立てられたものとしてあり、その組み立てられたものにたいして「なぜ」という問いを発している。近代科学は「なぜ」の問いを棄てたというが、じつはこのハイデガーの問いと裏腹の関係にあるように思われ、つまりそれは組み立てられたものが「どのようにして」と問うのが近代科学だったということができないだろうか。
そのように言いかえてみれば、現代の科学や哲学が近代のそれと決定的に異なるのは、まさにこれから組み立てるものとして世界を見ているからではないか。そのなかでは、哲学も科学も事象に対する遅延としてあるのではなく、それをもって物事を組み立てていくための仮説や判断規準としてあり、組み立てられたものに対して「後から」説明をするようなものとしてではなく、物事の「先に」ある。
アラン・ケイの「世界を知るためには、それを自ら構築しなければならない」というパヴェーゼの引用などは、そういう態度を典型的に示している(し、彼は近代の科学と現代の科学を決定的に異なるものしている)。

行為理由の行き止まりに対して隠れた自己了解を見出そうとする議論も、意義はありつつ、筋が良くない議論に見えてしまうな。そのような自己了解があらゆる行為につきまとうかというと、ぜんぜんそんなことはない。
つまるところ、環境を道具として立て、それを操作する実存を非道具として立て、それらについてそれぞれ「なぜ」を問うから、道具存在は「なぜ」に対する回答を持つように見えるが、実存のほうは「なぜ」にたいする回答がないように見える。だが、このような形で「なぜ」という問いが現れる場が哲学以外にあるのだろうか。

ハイデガーが行為の説明について適所を得させることとして説明するのは、哲学というものが常に行為に対して遅れてでてくる二次的な活動だからでもある。

というか、ハイデガーが語る「適所性」を打ち立てる活動として制作があり、「制作」とその他諸活動は異なるのだろうか、どうだろう。そういう話はハイデガーがどこかでしてそうではある。

行為を取り囲む環境が、きれいに構造化されているかのように語っているように思える。こういう疑問は昔は抱かなかったけど。

ハイデガーの「適所性」、ハンマーは釘を板に打ちつけるためにある、釘は板を固定するためにある、板は暴風から守るためにあるといった形でものの存在理由の連関の「了解」としてある。人間は行為時にそういった了解のなかを動きまわっているということだけど、なんかそんなにキレイにピタっと「適所」を得るようにはできていないとはおもう。
釘を打つということにも細かい位置の模索があり、いくつもの失敗に取り囲まれている。ある地点で釘を打つのではないような板の固定の仕方を思いついたとしたら、「了解」は破られていることになる。

Gretchen McCulloch、千葉敏生(訳)『インターネットは言葉をどう変えたか デジタル時代の〈言語〉地図』(原題:Because Internet: Understanding the New Rules of Language)(フィルムアート社)を読む。

秋葉原事件と永井哲学の関係は正面から論じられているんだろうかとおもったけど、この本で本人が文章を寄せているの気になるな
https://www.iwanami.co.jp/book/b262448.html

永井均が変なのはTwitterやるより遥か前からですね。Twitterで碌でもないのとつきあっているのは彼の哲学的傾向と関係あるようには思う(哲学的業績とは無関係)。

機械のように受動的にしか動くことができないものと違って、人間は能動的に動くことができる、そういう能動性について霊魂の存在をデカルトは考えたわけで、まさに「機械の中の幽霊」こそがデカルト的に言う人間

「機械の中の幽霊」ってデカルト哲学のメタファーになりうるのか

現象学が世界内存在って言っていたのは、分析対象としての「世界内存在」を作りだすことではなく、「世界のなかで思考する」ということだとおもうけど(「問う」ということもまた世界内における行為である)、永井哲学において「思考」が起こる場というのは特権的な場じゃないだろうか。

永井均氏、現象学に批判される意味での上空飛行的という性格があるように思っており(永井哲学が世界内存在の否定であるのはたぶん間違った理解ではない)、このツイートはおそらくそういう話

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