https://ics.uci.edu/~fielding/pubs/dissertation/web_arch_domain.htm
この章けっこうすごいこと書いてるな
Web 2.0は「調整や修正じゃないメジャーアップデートですよ!」っていうインパクト込みの命名だったんだろうけど、Web 3になると「x.0」というバージョンの規則からも変化しているのが面白いなとちょっと思う(もはやソフトウェアのメタファーでもない?)
旗本奴の水野成之が町奴の幡随院長兵衛を殺して切腹させられるのが1664年か。ちょっとズレがあるな。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E6%88%90%E4%B9%8B
阿国かぶきは、おそらく性秩序壊乱的な演劇だったのではないかとおもうのですが(遊女屋を通じて全国に広まる)、この阿国かぶきの幕府による取締と公許遊廓と芝居町の形成がセットではないかと考えています(吉原が1617年、遊女歌舞伎の禁止が1629年)。幕府のやろうとしていることは、性秩序のアナーキーな場を解体し、男性の芝居町と女性の遊廓に分離し、性による職能分離を進めているように見える。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E9%98%BF%E5%9B%BD
しかし、かぶき者といえば、暴力的に秩序に挑戦する(主に若い)男性の集団で、武士も町人もいて、浪人から大名の子弟まで混ざってて、家光の頃に治安上の大問題になったんじゃなかったっけ?(ああ、これ「切腹」のお話の背景だ)。
倫理を主体的な判断にもとづくものであるとすれば、こういう判断の外在化にはだいぶ問題があるようには思う。
過去からの連続性を「反省」しない、という態度を取るなら、それはそれでハードコアさが必要になるわけだ(それを続けているのが糸井重里。ぼくは彼のやり方を肯定しないけど)。
ぼくは「無反省」路線ではなく、抑圧的な野暮天として「反省」することを選んでいるつもりなんだけど、しかしそこで「アップデート」というイメージを持ち出すことにはやっぱり抵抗があるんだよね。
「アップデート」的なイメージというのはもしかしたら「反省」的な暴力性を緩和する機能を持ち得るのかもしれないけど、しかし現状はやはり、「反省」的主体をいろんな意味で免罪し、無責任化するための方便になってしまっていることがほとんどだと思う。自己否定性については棚上げしながら、他者糾弾性については際限なくエスカレートさせていくような態度というのも、そういう無責任化と無縁ではないと思う。
なので、倫理観の更新プログラム通知が来たらインストールする、みたいな反復に多くの人が陥りがちである。自分自身の過去からの連続性のなかでいま・ここにおける倫理について問い直すのではなく、単に自分のセキュリティリスクに対応するために「更新」するような浅薄さが、そこにはある。
そしてもちろん、「アップデート」的な志向を粗雑に否定したがるようなアンチ・リベラル的言説の大概もまた、自己免罪的で自分自身を問い直すことがないものばかりである。過去からの自分の連続性をただだらしなく肯定していると、そういう横暴さに辿り着く。
結局、誰もが自分のセキュリティリスク対応ばかりしている。ぼくだってそう。
価値観や倫理観の問題に対して、「アップデート」っていう「更新」のイメージや表現が持ち出されるようになったのって、どのあたりが起点になってるんかな?
持続的な内的成長みたいなイメージではなくて、OSやソフトウェアの「更新」みたいなイメージが持ち出されるようになったことの効果って、やっぱりあるよな。何がしかの価値観を内面化するプロセスが、過去からの連続性のなかでの自分なりの試行錯誤としてではなく、更新プログラムのインストールのようなものとして受け止められるようになってしまったというか。