吉原展の古田亮は「展覧会に現代的なメッセージを加えるのは違和感がある」としていて、田中優子と対立があるのか...。
https://twitter.com/K3DI7LAaAVx1CYP/status/1772977816226717881/photo/1
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「このような遊女の状況、近現代で言えば人権侵害こそが、吉原が現代につながらなかった理由である」
まるで現代は人権を守っているから吉原は衰退したみたいな言い方じゃないですか。貧困が相対的に解消されたから衰退したんでしょ。因果関係の理解がおかしすぎるんよ...。
まるで現代は人権を守っているから吉原は衰退したみたいな言い方じゃないですか。貧困が相対的に解消されたから衰退したんでしょ。因果関係の理解がおかしすぎるんよ...。
天明3年の米の作柄は弘前藩は皆無作に陥るなど惨憺たるもので、結局東北地方の太平洋側と現在の青森県では、天明3年から4年にかけて数十万人と推定される餓死者が発生した
天明3年はちょうど歌麿のデビューくらいの時期。それで、この Wikipedia にも書いてあることだけど、米価が高騰して打ち毀しがおこり、それが略奪になる。書いてあるとおりで、江戸の中期から後期にかけて政権はこういう暴動をコントロールできなくなっている。「完璧に近い治世」ってなんだよ…。
大吉原展の図録、田中優子の文章の冒頭がこんな感じで、戦争がない=平和って江戸時代なんだとおもってんだ。飢饉とか暴動とかめちゃくちゃあるでしょ。
江戸時代は二七〇年間にわたり、内外ともに戦争の無い時代を実現した。それはそれで見事なことだ。かくの如き完璧に近い治世とは平和ではあるが、その一方で「治める」ためのさまざまな秩序と統制が行き届き、緩むことを許されない社会でもあった
展示の問題を述べると、「吉原」というものを、始まりがあり終わりがあるものとして語っていることにある。それは、江戸初期に申請によってでき、明治になって芸娼妓解放令とともに終わるような、閉じた歴史として語られている。だから、かつて人権侵害的な制度があった、と過去形で語っている。現在とは切れている、無関係な歴史だと見做しているからそういう見方になる。
元禄期の絵と、天明・寛政期の絵で、華美さの度合いがめちゃくちゃ違っていて、元禄期の絵は歌麿らと比べると質素とすら言える。元禄期は肉筆中心で、天明・寛政期には版画のほうが中心となっている。メディアの発達と切り離せないし、次第に絵が社会のなかで果たす役割も変化しているからこそ、技術基盤が変わっている。元禄期と天明寛政期で、おなじ「吉原」とか「浮世絵」と括ることができないくらい違うなとおもう。
今日見たなかでは、英一蝶の絵がすごいよかったな。江戸初期(元禄ころ)の絵師で、自身も吉原の幇間だけど、すごく素朴なリアリティをもとに風俗画を描いている感じ。菱川師宣もおなじような素朴さがありよかった。
天明・寛政期の歌麿とか以降が、いかに華美で過度に装飾的な表現をしているか思いしらされるのだけど、この歌麿あたりを頂点とした美術史を構築したのが藤懸静也で、展示のパースペクティブはこの藤懸史観から一歩もでていない。
天明・寛政期の歌麿とか以降が、いかに華美で過度に装飾的な表現をしているか思いしらされるのだけど、この歌麿あたりを頂点とした美術史を構築したのが藤懸静也で、展示のパースペクティブはこの藤懸史観から一歩もでていない。
公界とか芸能民の話、中世史というか安土桃山時代との接続考えると、かぶき者みたいなのがどう変質して吉原や芝居町に囲い込まれた(押し込まれた)かという調査が必要で、初期吉原の文化の研究とか必要だと思うけど、歴史観そのものがあからさまに途切れている
要するに後世の(天明寛政期の)浮世絵を基準に歴史観が構築されていることが問題で、遡って菱川師宣が祖としてあるまでしかいかない。で、そのおかげもあってやまと絵との関係も捨象されることになり、吉原そのものが都市から孤立した空間とみなされたように、浮世絵は日本文化の流れの中で孤立した特殊な文化現象として把握されてしまう。
要するに後世の(天明寛政期の)浮世絵を基準に歴史観が構築されていることが問題で、遡って菱川師宣が祖としてあるまでしかいかない。で、そのおかげもあってやまと絵との関係も捨象されることになり、吉原そのものが都市から孤立した空間とみなされたように、浮世絵は日本文化の流れの中で孤立した特殊な文化現象として把握されてしまう。
吉原展のSNSでの評判を見ると、すごい情報量だ充実している云々とあるが、予習しすぎた自分にはスカスカで凡庸であった...。
歌麿のでかいやつとか、菱川師宣の初期肉筆浮世絵、英一蝶とか見れたのはめちゃくちゃよかった。
歌麿のでかいやつとか、菱川師宣の初期肉筆浮世絵、英一蝶とか見れたのはめちゃくちゃよかった。
大吉原展、絵は見れてよかったやつもまあまああったけど、各所から集めてきたわりには凡庸すぎるキュレーションで、かつあちこちに目配せしているのとか不快ですらあった。遊郭は人権侵害であり許されるものではないとか、単なるエクスキューズでしかなくてキツかった。「かしく遊女いやだ申候」(遊女かしくが東京府に遊女をやめたいと申し出たが認められなかった)の件も展示あって、当初から展示する予定だったと思われるけど、取ってつけたようにしか見えない。
一方に華やかな文化があり、その華やかさの影に隠れる遊女の悲哀がある、という見せ方そのものがどうみても凡庸で、むしろそういう見せ方がどういうパースペクティブに基づいているか批判的に展示してほしかった。
一方に華やかな文化があり、その華やかさの影に隠れる遊女の悲哀がある、という見せ方そのものがどうみても凡庸で、むしろそういう見せ方がどういうパースペクティブに基づいているか批判的に展示してほしかった。
解説ひどすぎてそれも萎えてる。
抱一の絵2枚に並んで清方が抱一を描いた絵が展示されており、タイトルが「雨華庵風流」なのだけど、「雨華庵」とは抱一の号であることも書いてないし、清方が誰で、なぜ抱一を書いたかとか説明もなく、抱一そのものについての説明に終始している。絵が展示されているのに、絵そのものに注意がまったく促されない。こんなに絵を見せる気がない展示の仕方も珍しい。
抱一の絵2枚に並んで清方が抱一を描いた絵が展示されており、タイトルが「雨華庵風流」なのだけど、「雨華庵」とは抱一の号であることも書いてないし、清方が誰で、なぜ抱一を書いたかとか説明もなく、抱一そのものについての説明に終始している。絵が展示されているのに、絵そのものに注意がまったく促されない。こんなに絵を見せる気がない展示の仕方も珍しい。