@tomoki
↓この内務省報告はわりと信頼できる内容ですが、企業にとって自社社員をリ・スキリングすると転職されてしまうリスクがあり及び腰になりがち、という背景が現状であり(つまり社内での技術教育が不足している)、それで政府支援になっているのだとおもいます。これ自体はよくわかる話で、社会全体の労働生産性向上にむけては、社会人になってからの職務技能向上が必要なのはそうだとおもいます(とくに仕事に直接必要ないとおもわれる技能、ブルーカラー労働者が政府支援でプログラミング技術を学ぶなどは有用なものだとおもいます)。
https://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je23/h03-01.html
なので個人的には政府支援までは反対ではないのですが(これも政府が企業に対して支援のための補助金を出すほうがいいのでは?とおもいますが)、これが「別産業への転職を促す」などの話になると、労働者もそんなモチベーションが沸くはずもなくありえないなとおもっているのですが、現状の「新しい資本主義」会議ではそんなこと話しているようで恐怖しています。
「出産数が足りないから同窓会支援する」、みたいな異常思考と似ていると思いました。
↓この内務省報告はわりと信頼できる内容ですが、企業にとって自社社員をリ・スキリングすると転職されてしまうリスクがあり及び腰になりがち、という背景が現状であり(つまり社内での技術教育が不足している)、それで政府支援になっているのだとおもいます。これ自体はよくわかる話で、社会全体の労働生産性向上にむけては、社会人になってからの職務技能向上が必要なのはそうだとおもいます(とくに仕事に直接必要ないとおもわれる技能、ブルーカラー労働者が政府支援でプログラミング技術を学ぶなどは有用なものだとおもいます)。
https://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je23/h03-01.html
なので個人的には政府支援までは反対ではないのですが(これも政府が企業に対して支援のための補助金を出すほうがいいのでは?とおもいますが)、これが「別産業への転職を促す」などの話になると、労働者もそんなモチベーションが沸くはずもなくありえないなとおもっているのですが、現状の「新しい資本主義」会議ではそんなこと話しているようで恐怖しています。
「出産数が足りないから同窓会支援する」、みたいな異常思考と似ていると思いました。
@hidetakasuzuki 気温は何度くらいなの?
ちょっと思ったけど、ディスプレイ的経験を記述するのはやっぱり通常の身体動作とのアナロジーでは無理だな。やっぱり、没入みたいな現象があるのもインターフェースの間接性に起因している。コンピュータ上の空間に自己定位するとき、自己身体が現実空間内でもつリアリティと別のリアリティ(操作とルールセットからなる世界)を受け入れる過程がかならずあるはずだ、とおもえる。このリアリティの切り替えが没入の前提としてある。
実際タイピング速度が上がると、リアルタイム性と、記述内容の構造の可視化を同時に手に入れられるため、他のいかなる体験とも異なる出力体験が得られてるんだよなぁ。
その瞬間にはキーを(まして一つ一つ)押しているというような感覚はないので、インプロセスでは機械と接続されているけど、ポストプロセスでは「キーボードをたたいて文章を入力した」と捉えなおすのが普通で、自分がやったことの価値を低く見積もっている気がする
ニンジャスレイヤーに、身体・精神的超人たるニンジャのタイピング速度が一定の閾値を超えると、ネットワークと精神的につながるみたいな設定があって、これが笑いどころであると同時に、脳みそも人間とはアーキが違うと考えると、これって(人間の改造やIFの進化によって)実際に起こりうるのでは……みたいなのを思ったことあるなあ
コンピュータ操作においては、コンピュータ世界内存在と、いわゆる現実空間内の自己身体とで、身体イメージが二重化しているとかは考えられそうな気がする。
現実に歩くときにはこのような二重性は発生していない、身体が一つであることは自明に受け入れている。そりゃインターフェースが間接的だからだ、というのは当然ありうる議論だけど、それを言うと未来のインターフェースはより直接的なインターフェース(身体の直接的延長)だって話に落ちがちで、本当にそうか?という疑問はある。
むしろいままでの人類の道具群は、コンピュータのような間接的インターフェースとして構築されてこなかったのか?人間は仮想身体の二重化をうまく利用する術をもっているのではないか?など適当なことを考えた(離脱)。
現実に歩くときにはこのような二重性は発生していない、身体が一つであることは自明に受け入れている。そりゃインターフェースが間接的だからだ、というのは当然ありうる議論だけど、それを言うと未来のインターフェースはより直接的なインターフェース(身体の直接的延長)だって話に落ちがちで、本当にそうか?という疑問はある。
むしろいままでの人類の道具群は、コンピュータのような間接的インターフェースとして構築されてこなかったのか?人間は仮想身体の二重化をうまく利用する術をもっているのではないか?など適当なことを考えた(離脱)。
でもまあ、コンピュータ操作者が、コンピュータが提供する世界に世界内存在として自己を定位するって、マウス操作やキーボード操作などの入力デバイスとディスプレイやらなんやらの表示によって世界がどのように変化するかによって、自己の仮想的身体が定位されるとは思われるが、このときコンピュータ空間上に定位される「仮想的身体」はもはや現実の身体とまったく似ていないだろう。ポインターってなんだ。
人間が刺激に対して反応するだけの機械だとしたら、視聴覚装置から脳に電気信号が到達するまでの時間があるから、反応は常に現実に遅れるとおもうけど、たぶんそれは予測可能空間内で調整されている(だから世界に対し適切な応答ができる)。道を歩くときにもこの脳内空間内での自分の身体の位置を定位しているはずだし。これがメンタルモデルなんじゃないだろうか。
たぶん、物理的なモデルを考えるほうがUIをつくるときに重要なんだとおもう。「メンタルモデル」という言葉がよくない。モノ同士の制約関係はかならずしも論理と関係がない。むしろ空間的・物質的な制約関係で、それをソフトウェアにいかに反映するかがUIの問題ではないか。
世界の写像として脳内空間があって、その脳内空間内を行動するイメージが人間にはあると言われれば、そうかもしれないと最近はおもう。いやその行動に必要な脳内空間が、世界の「写像」であるかどうかはデカルト的にはわからないのだけど(世界が直接的に知覚に現れることはないのだから、今見ているものと世界が「似ている」かどうか判断しようもない)。
このAさん、Bさん、Cさんを並べるという脳内操作、コンピュータの操作でも、あるファイルが特定のディレクトリに排他的に存在している、というイメージは、モノのありかたから借りてきているとおもう。モノは空間上に排他的に存在している、同じようにファイルもディレクトリ空間のなかで排他的に存在している。