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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

小谷野敦の「「聖なる性」の再検討」は、「聖なる」も「性」も中世において現代のような意味はなく、「聖なる性」という概念が現代人のロマンの投影だとするのは、意義がある議論だと思う。
https://nichibun.repo.nii.ac.jp/records/653

「江戸期の吉原」を語るのに人権という概念を持ち出しても混乱するだけだと思うんだよな。田中優子の本も、最初にフェミニズムとか人権を持ち出してるエクスキューズがめちゃくちゃ浮いている。

「絵ごころでつながる-多磨全生園絵画の100年」 (国立ハンセン病資料館) |Tokyo Art Beat
https://www.tokyoartbeat.com/events/-/100-Years-of-Paintings-at-Tama-Zenshoen/the-national-hansens-disease-museum/2024-03-02

田中優子の「遊廓と日本人」を読んでるけど、吉原についてどういうものか簡単にわかるのはいいけど、遊女について「自然や日本の文化を表現する巫女的な存在でした」とか言ってしまうのがしょうもなさすぎるな。「はじめに」のとってつけたような男女不平等への言及もしょうもない。

出雲阿国にはじまる(おんな)かぶきに、国家権力が介入して機能分解し、芝居町(男)と吉原(女)を形成した、というようなことがありそう。

しかし、古来より日本の伝統的な宗教だった神道というものが、明治政府によって国家神道として支配構造に取り入れられたというのは誤りで、神道あるいは天皇というものは最初から国家による支配のために作られたもの。

神道は中国語で、天皇も中国語。神社も律令制を中国から導入するときにはじめてつくられた。天武・持統より前に律令制と一体の概念である天皇は存在しなかった(「おおきみ」と呼ばれるものはいた)。天皇を頂点とする差別構造は、服属させるべき民族や国を蝦夷や夷狄などと呼び、日本国を中国と対抗できる帝国へとつくりあげようとした。

芳年の大日本名将鑑、明治11年くらいから出版されてるけど、その前年には西南の役で薩摩方にめちゃくちゃ肩入れしていて、そのへんの温度感読めない。心情的には反新政府だと思うけど。

みんなネトウヨのポストなんて見ないだろうから神武天皇の絵も貼っとくことにした。

芳年さいこー!弓の上にとまってる金鵄が主人公じゃん笑笑
こいつが東征の勝利をもたらしたんだからこいつが偉い。神武天皇?他力本願じゃん、みたいなパンクスピリットでこの構図にしたかもしれないと妄想すると萌えるぜ!

建国記念日だからたくさんのネトウヨさんが月岡芳年の絵による神武天皇を貼ってるんだけど、これが含まれる『大日本名将鑑』は最高だから他のも見てほしいぞ。
最高というのは、これらは明治になってから作られたものなので、お上のご意向に沿って皇室由来の人まで武者絵にしてしまってる切ないところだったりもするが、やっぱ芳年はいいのだ。

小谷野敦「聖なる性」の再検討
https://nichibun.repo.nii.ac.jp/records/653

当時の芸能集団というか、幕府的な秩序に沿わない人間(公界者)というのは、ようするにプロレタリアート的な性格があり、放っておくと革命的な機運が高まるので囲い込んだ、というほうが説得力がある。

幕府による公認遊郭の成立事情は知りたいな。「そもそも芸能の空間で」という言い回しを歴史修正主義という人いたけど、当時は芸能にたずさわる者も「公界者」だったと思うので、幕府の遊郭の公認が「公界」としてであれば芸能集団の居住地として設計されたという話なはずで(展示主催者の「芸能の空間」というのは多分そういうことだろう)、それはそんなにおかしい話には思えない。幕府が管理売春してたのは間違いないけど、「公界」を作るのはただの建前かどうかはそんなはっきりと言えないと思う。もう決着ついている議論なのかもしれないけど。

巨大産業とかがあれば雇用が生まれるが、それが当時たいしてあったわけでもないし、持たざる者は売春するだろうし(罪と罰のソーニャとか)、管理売春として政府が制度化したのは性差別的な文脈とはおもわない(自然発生してしまうので管理するほうがマシ)。現代と条件が違いすぎて当時の「買う側」の批判しても仕方ないように思う。性の商品化を生みだしているのは貧困で、「買う側」の「男性性」なるものがどれだけ問題化されるべきなのかちょっとわからない。
それこそ、吉原みたいに文化が発達した世界での「性の商品化」は、貧困という文脈とは違った意味で現代的なものがあるようにおもう。高級な花魁が身体を売っていたわけではなく、まさに文化を売り物にしていたように思うのだけど、それはやはり現代の芸能界と近いようにおもう。

そもそも近代の資本主義みたいに大資本が労働需要を生み出すようなことが江戸期にはなかったがゆえに、貧困層としては公認であろうと非公認であろうと売春せざるを得なかったのでは?(売るものがほかにないので)という疑問が、性差別云々の文脈以前にあるのだけど、あまりそういうことを言うひとも見かけなかったな。

大吉原展にたいする開催前の感想をtwitterで見ると、性産業にたいする差別的感情の強さにはやっぱり驚く。

典型なのは吉原の地図を提示して、近くに被差別部落や処刑場があることをもって遊廓を「女性にとっての地獄」と言っていたツイートで、これ被差別部落を「地獄」として扱っているのもクソだし、遊廓が被差別部落と近いことをもって差別されるのは当然だとするような考えで、ひどいなとおもった。

江戸と明治のあいだで、なにが連続的でなにが非連続的なのか、吉原の件とか見てもいろいろ思うことある。

崩し字の本って活版印刷じゃないよなと思ってたけど、連綿活字なんてものがあるのか

「買い手側の問題」から「加害者側の問題」への視点転換は、売買春は買い手が悪い論というか、男性の倫理問題に陥りがちで良くない議論だと思うけど、渡辺氏が「加害者」というのは社会構造が全体としてどうなっているかの議論抜きに良し悪しを論じることはできない、ということだと理解しました。

遊郭を調査している渡辺氏のような方がこうして丁寧に文脈を拾ってもらえるのも、仮に展示そのものが失敗したとしても(自分は展示にはけっこう期待しているけど)、アカデミズム美術史と社会史が交錯してよいことだとおもう

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