https://www.fukuoka-art-museum.jp/collection_highlight/2657/
ダリの絵って印刷物映えはするんだけど、実物はめちゃくちゃペラく見える。それは印刷物だとイメージの全体が脳内で把握できるのに対して、実物はデカすぎていろんな角度から見えてしまい、イメージというものの薄さを知覚してしまう。
あと、買って楽しめるのもポイント高いです。
https://scrapbox.io/tenjuu99/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%94%B1%E4%B8%80%E3%80%81%E5%8C%97%E6%BE%A4%E6%86%B2%E6%98%AD
高橋由一にトンネルを描いた絵があるけど、あれを土木の文脈から読んでいる。文明開化をあらわした錦絵がおもちゃのような汽車を描いたのに対して、由一は自然と拮抗するものとしての人間の技術を描いている。小勝さんは、由一のそういう視点をターナーの汽車の絵と比較している。
平凡社創業110周年記念出版[復刻保存版 FRONT]シリーズ刊行 - 平凡社
https://www.heibonsha.co.jp/smp/news/n55778.html
「時代が流れ、SNSを通じて人々の好みが多様化した現在、もはや「メイン」や「A級」という考え方自体が、ほぼ消滅してしまった」=情報環境の変化でメイン・サブみたいな構造が成立し難くなった、というのはたしかにそうなんだけど、そこで「B級である矜持を持とう」みたいな70~80年代サブカルチャー的アイロニーが無効化されていったことこそが重要という気がする。押しつけがましい選民意識と言っても、しかしそこで何故「B級」が志向されたのかが伝わらなくなっていったというか。本当の選民意識なら、別にハイカルチャーで良かったわけでね。問題は「多様化」という位相だけにあるわけではない。
「B級である矜持を持とう」的なアイロニカルな感覚・戦略はゼロ年代VVの店頭には既に感じられなかったし、あの頃VVに通っていた若者たちは、体系的知識の圧や選民意識みたいなものをさほど気にしていなかったように思う。菊地敬一はハイ・カルチャーに対してのサブ・カルチャー(キャンプ、バッドテイストなもの含む)を志向していたんだと思うけど、そういう対立構造自体が、ゼロ年代には既に理解しづらいものになっていた。例えば80年代の戸川純と、ゼロ年代の椎名林檎を見比べるだけでも見えてくるものがある。アイロニーではなく、順接というか、ストレートに生産され・販売され・消費されるようになっていった。
で、自分はそういう「アイロニーを理解できなくなったゼロ年代的サブカル」が、その危うさ含め結構好きだったんですね。そこにある無邪気な感覚が、選民意識とは違う何かを育む可能性を持っているように思えていた。ただ、この無邪気さがいつかベタな政治に遭遇したとき、洒落にならなくなるだろうとも思ってたけど。そして椎名林檎のその後の軌跡が、その具体例のひとつになったんだけど。
ポスト・サブカル焼け跡派のあたくしとしても、いろいろ思うところがあるでござる。
ただなんというか、VVが提案していた「サブカル」って、世代によっても受け止められ方がたぶんかなり違うような。ぼくは84年生まれで、ゼロ年代半ばぐらいに一番VVに行ってたけど、当時VV的「サブカル」って既に半笑いな感じで受け止められていたというか。本当にハードコアな人は行かない店というか。自分は当時「アンチ選民主義!汎用化されたチープ・サブカルがむしろ大切!」と思ってたので、VV的な安っぽさが好きだったんだけど。
「「サブカル」という言葉の輪郭が曖昧になるにつれて、その空間の演出も曖昧になってしまう」というのはたしかにそうだと思うけど、「ヴィレヴァンにはどことなく「選民意識」みたいなものが流れている」というのは、自分の実感・体感とは結構ズレるなあ……。
ヴィレヴァンが知らぬ間にマズいことになってた 「遊べる本屋」はなぜ魅力を失ってしまったのか
谷頭 和希
2024/01/18
https://toyokeizai.net/articles/-/728491