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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

@hidetakasuzuki 豪華版だ

「プログラムなんてそのうち全部大規模言語モデルが書いてくれる」という話もあるが、その場合でも、要望の伝達手段として自然言語を使いたいとは思えないんだよな。

給水塔ツアーたのしそうだな

偽情報の割合が最も多いのがX(Twitter)で次点がFacebookらしいです()
Xはコミュニティーノートが機能していることを理由に反対しているらしい。
X(Twitter)の偽情報率があまりにも高すぎるとしてEUが「関連法を順守しろ」と警告 - GIGAZINE
https://gigazine.net/news/20230927-eu-warn-x-dsa/

6月から3カ月連続で世界平均気温が過去最高を記録しているのだけど、9月はそれにも増してケタ違いの観測史上最高になるはず。このデータによると、6~9月に平年(1979年から2000年)を1度以上上回ったのは1日(7月6日)だけ。9月は25日までですでに12日も(15日から11日連続で)平年を1度以上上回っています。

ちなみに、エルニーニョの影響が最大になるのは、まだ先です。メディアは一様に「エルニーニョの影響」でまとめていますが、エルニーニョの影響が出始めるのは、発生後3カ月たったくらいから。つまり、5月に発生したエルニーニョの影響は8月に出始めたばかりで、今はまだウォーミングアップが終わって、トレーニングキャンプをやっている感じです。

カオスラウンジとか林道郎とかにはこういう争点化すらないままヌルッと進んでいるので美術業界は最低だなという思いが...

「キャンセル」というのがやはりかなり微妙な問題を含んでいるようには見える。これみるかぎり、呉座さんとしては「歴史修正主義者」というレッテルが歴史家としてのキャリアにとって致命的なので、そこが担保されたから訴訟から下りたという話。
https://ygoza.hatenablog.com/entry/2023/09/27/111818

呉座氏は勝利を主張している。

https://ygoza.hatenablog.com/entry/2023/09/27/111818

呉座さんて何がまずかったんだっけ?と思っておられる方はこちらの嶋さんの投稿をどうぞ。

https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/137817/8c1b9642f73e022e8cab9084b3d75e42

オープンレター訴訟、先方の主張撤回で和解になりました。ほぼ全面勝利です。

神原弁護士をはじめ弁護士団の皆様、ご支援くださった皆様、ありがとうございました。

https://note.com/kambara7/n/n5d73b7f453d0

循環史観じたいはヴェルフリンも似たような概念を唱えているけど、それを批判してでてきたのがパノフスキー

中ザワヒデキ『現代美術史 日本篇 1945-2014』を読んでる。おもしろいけど、「循環史観」の主張は気になる。中ザワの主張する循環史観は、「前衛→反芸術→多様性」をワンセットにして様式展開を繰り返すというもので、西洋にもアメリカにも日本にも現れたとするけど、これは美術の歴史的展開は自律的だとする歴史観なので、社会と繋げられなくなる。実際、この史観に西洋の美術史を入れるとダダとかシュールレアリズムとかから戦争との関連が見えなくなる。

長々とアレだが
「そんなことを繰り返していてわたしたちの「美術」の営みはいったいどこに蓄積され得るのだろうか」このへんの梅津の記述は「悪い場所」(椹木野衣)を踏まえていることがわかるが、梅津の制度的な美術理解を鑑みるに、悪い場所論じたいが制度としての美術と依存関係にあるようにおもわれる。

これは「平成美術」についてのメモ。
https://scrapbox.io/tenjuu99/%E5%B9%B3%E6%88%90%E7%BE%8E%E8%A1%93_%E3%81%86%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%A8%E7%93%A6%E7%A4%AB
まだ論点が整理できないけど、「悪い場所」は行きつく場所が制度にしかないのではないか。それはカオスラウンジがインターネットカルチャーをアートにアプロプリエーションすることで成り立っていたのと同じことなのではないか。この件はいずれ主題化して考えたい。

おかけんが途中で唐突にディスられるが、こういうのも一部の人には効く物言いで、「岡崎って人がいつもすごく偉そうなこと言ってるけど絵はおもしろくないよね」ってそういうのに溜飲を下げる人はいくらでもいる。それこそポピュリズム的な物言いではあるし、こうやってダシにするのは素朴に敬意ないんじゃないのとはおもう。
ちなみに、私見では岡崎作品は制度的な美術というよりマイナーアートとしての良さがあるとずっとおもっている。デカい作品でいいなとおもったことがないけど、小さい作品はだいたい良さがあって、それは制作方法とかなんとかからでてくるというより、感性の問題だったり、岡崎さん自身の器用さに起因しているとおもう。彼の言論活動から来るモダニストとしてのイメージとずいぶん違って、職人の延長みたいなタイプだとおもう。
自分としては岡崎作品についてはこんなイメージだから、梅津が岡崎作品を美術制度的な文脈で読もうとしてつまらないと断言するのは、制度としての美術にくわしすぎてそのようにしか読めなくなっているんだろうなとおもう。

梅津のこのレビューはおもしろいけど、観客がふだん見ていない楽屋を提示し、巨匠にたいする観客という読者の位置付けを崩して、観客でなくなった何者かに「おまえの主体はなんなんだ」って問わせているわけだけど(こんな問いに当然意味があるはずもない)、手札を開示し楽屋を見せホックニーの大衆性を強調すること(これも楽屋から見た視点なのだ)などなど、どれをとっても共犯関係をむすぶための告白で、文章うまいぶん本当に信用ならん書き手だなとおもった。

梅津に問われてしまう主体も制度としての美術の相関物でしかなくて、制度の外には問われるような主体もない。ただ、冒頭にあれこれ書いているように美術メディアの拡張で制度のほうが広がっていると言えなくもないわけで、ここでまんまと梅津のいうとおり「主体」を問いはじめてしまえば、それこそ制度の一部になっていく。

読んでおもったけど、いわゆるモダニズム(狭くMOMA的な価値観のことを指すものとする)は、本人たちの意図と無関係に美術の制度化を推し進めたとおもうけど、市場には制度としての美術に数えられないような美術ってたくさんある。いまもたくさんあるし、それこそエコール・ド・パリのころの絵も制度的な美術に回収できるわけではない。
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/hockney-yoichi-umetsu-review-202309

いやマイクロポップはまあいいか。
どっちかっていうと、結局「瓦礫」以降を把握できていないことと、チンポム/カオスラを「瓦礫」と名指すことで歴史化するという操作になっていることに問題がある。反芸術が芸術という制度に依存していたことにたいして、制度としての芸術が解体されたあとにあらわれるのがマイクロポップと瓦礫ということになるだろうが、椹木の操作は(本人が言説としては非歴史的な態度を主張しているにもかかわらず)歴史を構築するための操作になっている。制度としての芸術は終わっていないし、椹木の歴史化もまた制度的なものになっている。マイクロポップにもおなじ問題がある。
でも「突然、目の前がひらけて」とかは、そもそもうたかたでも瓦礫でもない。むしろより構築的なものなのは間違いない。制度としての美術に回収できるようなものでもない。

これが、フェミニズムやポストコロニアリズムという視点から批判されたことには(これらの批判が妥当であるかどうかはともかく)象徴的な意味はある。
https://www.genron-alpha.com/gb060_02/
https://globe.asahi.com/article/14419015

松井みどりが打ち出したマイクロポップ路線は村上隆の落とし子だが、そもそも村上隆の活動をポストコロニアリズムやフェミニズム的に解釈した展開だとおもう。そこから椹木が「うたかた/瓦礫」に転換するのは、村上隆の引力から脱出するためにおこなわれているようにおもう。チンポムとカオスラウンジも村上隆の落とし子だが、マイクロポップではない。椹木史観からすれば震災がマイクロポップを吹き飛ばして瓦礫にしてしまったというわけで、チンポムやカオスラウンジはもともと瓦礫だったから生き残ったということになる。

椹木の態度にナショナリズムを読み込むのは間違っているし、「突然目の前が開けて」のメンバーをキャリアがたりないと切って捨てる危うい操作をすることにも問題がある。こういう方向での批判ではなく、マイクロポップは震災でほんとうに解体されたのかを問うことには意義があるのではないか。

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