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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

村上とかレントゲン的なものをわざわざ後退させて平成を振り返ることには、意義がある。マイクロポップのやりなおしであるともいえるけど(マイクロポップは村上の落とし子だがchimpomやカオスラウンジはマイクロポップ的なところもありつつそれだけでは語れない)、それをデブリとして言うのは重要な認識が提示されているようにはおもう。

村上隆とchimpom/カオスラウンジのあいだの切断にどんな美学的な差があるかということがたぶん椹木的な関心とおもわれ、「デブリ(瓦礫)」としてのchimpomやカオスラの前史を「バブル(うたかた)」と言うわけだ。なので、デブリ以降(カオスラウンジ以降)は把握できているとは言えない。というか記述する概念が「うたかた/瓦礫」がchimpomとカオスラを記述する装置である以上、その後を記述することができない。

『平成美術 うたかたと瓦礫』展示は見にいかなかったけど、図録を読んでみて、そんなに男性中心主義とか自民族中心主義とかではない。
まあ「デブリ」というチョイスは、椹木の本来の意図としてはchimpom/カオスラウンジ論なんだろうなとはおもう。

歴史と歴史認識って客観的なものとかじゃなくてつねに政治的イシューだけど、「中立的な事実」というものがあるという観念は抜きがたいらしい。

これは気になる
https://amzn.asia/d/8Ow633R

なにがどうなったらこんな記事が生産されることになるのか...
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2023-09-25/S1IFKAT0G1KW01

関東大震災の『人災』 映画「福田村事件」が掘り起こしたヘイトクライムの実態【かんさい情報ネット ten.特集】
https://youtu.be/F55jSTXyi1g&t=705

これか。
11:45あたりから。
東京都復興記念館の森田祐介調査研究員、慌てふためいてノーコメントを貫くその姿勢がなんとも雄弁に東京都の隠蔽を知らせてくれてコメディのようだ。

スチームパンクは、全部物理的な運動で解決するぜ! というゴリ押し感がアツいという面もあるような気はする。可動部品を減らして電気でセンシングとか計算しちゃう甘ったれた現代文明はその点でアツさが全然足りない (?)

ちょっとわかる気がする
スチームパンクはもっといろんなものを蒸気機関でなんとかするような勢いがあるけど

現代も正直ガソリンパンクというなかなか尖った世界観だとは思ってる。全ての車が蒸気機関積んでるのとノリはあまり変わらない。

このおしり写が気に入ってる

ミユビシギのおしり

“ちいさい秋”が見つからないうちに、いきなり窓から巨大な秋が自ら突入してきたみたいな気温降下ですが、みなさん大丈夫ですか?
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%81%84%E3%81%95%E3%81%84%E7%A7%8B%E3%81%BF%E3%81%A4%E3%81%91%E3%81%9F

@moriteppei@mastodon.social 😂
「わし」が小林よしのりみたいなの、わかってしまう……小林よしのりに人称いっこつぶされてるの不便ですね

Iとか我(中国語)とかがいいです……

近代人類史上(過去12万年で)最も暑かった異次元の夏(6月から8月)が終わって、秋になったそうですが、秋分の日(9月23日)の世界平均気温は、平年(1979年~2000年)を1.11度上回るさらに異次元な暑さになっています。

これ、人類史上最も暑くなった日(7月6日)の偏差(平年との差)を0.09度上回っているんです。

エルニーニョの影響が大きくなってきているのはあるとしても、それだけでは説明できないレベルの暑さ。バックグラウンドで進んでいる温暖化の影響と組み合わせたらえらいことになったって感じですね。

春頃までは、「今年が観測史上最も暑い年になる可能性の方が低い」と予想する気候科学者がほとんどだったのに、今では最も暑い年になるのはよっぽどのことがない限り間違いないとして、1.5度を超えるかどうかに話が変わってきています。

だれも傷つきさえしなければ、自然変動と人為的変動が呼応しあって起こる現象そのものはとても興味深くておもしろい分野なんです、気候変動って。何が原因か、どうすれば止まるのかがわかっているのに、何十年も何にもせずに欲を満たすために行動する企業と政府、それを可能にしてきたうそや誤情報、グリーンウォッシュ、それに容易に引っかかって&世界観を守るために拡散させるインフルエンサーとそれに疑問を持たないフォロワーたち、無関心な人たち、関心を持ってもなすすべがない人たち、関心を持つ余裕もなく傷つくだけの人たち、何が起こっているのかも知らないまま傷ついていく生態系を見ていると、なんともいえない気持ちになります。

椹木が「うたかたと瓦礫」というほとんど神話的な語りをしているのは意味があるというか、そういう神話こそ批判的に読解されるべきだとおもう。まあ椹木はむかしから神話ばかり語っているけど。

椹木の歴史観がかかえる閉塞感は社会構造的なものというより時代的なものであるのはまちがいないとおもう。それは、自分の印象では、宮崎駿のファンタジーのもつ外部性の欠如と似ている。

村上と比べれば椹木はあきらかに日本人を対象にした日本美術の見せ方を検討していたので、椹木にはセルフオリエンタリズムという契機が欠けている。椹木の文章で良いものはいつも彼自身の想起を伴う反省的な文章で、そういう反省性は村上にはない。村上はみずからが表象になることを選んでいて、思考する主体であることを見せようとしない。それがセルフオリエンタリズムということだろう。椹木は内省する。「平成美術」という仮構は、彼の内省的な空間に観者を引き入れる仕掛けだ。すくなくとも、自分はそういう対比はあるとおもう。ここに松井みどり(マイクロポップ)を加えるとどうなるか関心はある。

そういう流れを踏まえても、このレビューはあきらかにナイーブすぎる。おそらくこれまでフェミニズム系批評の蓄積が欠如しているためにこうなっているのではないだろうかという気がする。
https://globe.asahi.com/article/14419015

「リトルボーイ」の図録に松井みどりの論考があり、けっこうおもしろかったのだが、松井は村上隆とマイクロポップ的な流れをポスコロとフェミニズムで読んでいる。これはけっこう重要な話だなとおもうけど、日本のフェミニズム系の論者で村上隆を論じている人はだれかいるかな。

武蔵美の大辻清司展みてきた
インターメディアのやつ気になってしまった

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