この信号の映像について話していて、ランニングしていたときに歩道ではなく車道の端を走っていたら後ろから来た自転車に「歩道走れよばかやろー」とか言われてむかついたことをおもいだした。「道」は「歩道」や「車道」に分割されているが、いったいなにによって分割されるのだろうか。法の定めもあるわけだが、人工物のデザインによって、法の内面化が進行する。路側帯なんてものがない道なんていまだにいくらでもある。空間に対する内面化された規制は、倫理として受けとられる。
高島鈴さんの『景観を穿つ』はwebで読める https://www.elabo-mag.com/article/20210514-03
風景論、すごく刺激的な一方で、ここで対象化されている「風景」とは果たして何なのか、そのようにある種の実体化をしていい概念なのか、むずいなと思う。映画や写真といったメディアと結びついた議論であることを前提としているからなおのこと厄介というか。風景というのがイメージの問題なのか都市や自然の問題なのか……。風景に埋め込まれた不可視の権力、みたいな発想でいうとシチュアシオニストや都市論・空間論の流れ、ゴードン・マッタ=クラークやらダン・グレアムなんかを突き合わせて考えたくなるものだが果たして……。松田政男や中平卓馬をちゃんと読んだほうがいいのか。
樋口一葉旧居跡のすぐ近くにある、百年ものの木造住宅(二枚目の写真の左の建物)は、「一葉ハウス」という賃貸物件だということを今日知って驚愕した。
てっきり、文化財か何かかと思っていた…1921年に建てられたらしい。
特にここでは歴程美術協会の作品が重要。今回は山岡や山崎のほか、船田玉樹や八木虚平(のちの八木一夫である)らの作品が出ていました。歴程美術協会については、2010年に「日本画の前衛」展であらかた紹介されており、してみると今回は同展のダイジェストというかリターンマッチといった趣もあったわけですが、個人的には当時同展で接して呆然とした作品に、今回もやっぱり呆然としたのでした。例えば山崎の《戦地の印象》は、自身が出征した中国の情景を巨大な屏風画として描いたものですが、戦地感のまったくない茫洋とした大地の風景には圧倒されることしきり。あるいは同じく山崎の《歴史》は石仏でも掘られてそうな中国の岩山でナチがニュルンベルク党大会を開いたようなヴィジュアルという、今から見てもトンチキ度高い作品でして、逆に総力戦体制下における想像力/妄想力のありようを示すものとなっています(山崎にはほかに《神話》という、これまたトンチキパワーにあふれた作品がありますが、今回は未出展)。
京都国立近代美術館。走泥社展を見た後、常設展フロアにもフラッと入りましたが、「歴程美術協会からパンリアル、そしてパンリアル美術協会へ」というコーナーがあってテンション爆上がり。
1938年、日中戦争のさなかに結成された歴程美術協会は、前衛志向の日本画家を中心に周辺分野も巻き込みつつも、戦争の激化にともなって1943年に諸団体と統合されて姿を消してしまいますが、その中心メンバーであった山崎隆(1916〜2004)が三上誠(1919〜72)や下村良之介(1923〜98)とともに戦後結成したのがパンリアルであり、さらに翌年パンリアル美術協会にリニューアルする(同協会は上記のメンバーが全員亡くなった後も2020年まで続いた)──という一連の流れを、山崎や歴程美術協会創設メンバーの山岡良文(1911〜70)の作品を軸に回顧していくというものでした。
https://www.momak.go.jp/Japanese/collectiongalleryarchive/2023/collectiongallery2023no02.html
【レビュー】「走泥社再考 前衛陶芸が生まれた時代」京都国立近代美術館で9月24日まで 岐阜県美術館などへ巡回 https://artexhibition.jp/topics/news/20230809-AEJ1518406/
京都国立近代美術館で明日まで開催の「走泥社再考 前衛陶芸が生まれた時代」展、当方も会期末に近い20日にようやく見てきました。八木一夫(1918〜79)や鈴木治(1926〜2001)らを中心メンバーとして1948年に結成され1998年まで続いた走泥社ですが、この展覧会ではその前半、結成から1973年あたりまでを振り返るものとなっています。「振り返る」といっても、単に当時の八木や鈴木たちの作品を並べて良しとしているわけではなく、同時期にやはり京都で活動していたもうひとつの前衛陶芸団体「四耕会」(1947〜56)同人の作品や、彫刻の側から前衛陶芸に近い作品を作り続けた辻晉堂(1910〜81)の作品、さらには八木たちに大きなカルチャーショックを与えたピカソやイサム・ノグチの陶作品も並べることで、「前衛陶芸」が可能になった時代精神をも視野に入れようとしていたと言えるでしょう。