永井隆則さんの絵画からデザインへって話、作品に内在的な意味がなく鑑賞者側にとっての作品の意味付けをやってる(肘掛け椅子)ってことではとおもうけど、それデザインって言うんかという感じはある。まあバウハウスとの関連というか並行性はあるいえるとおもうけど。
リトルボーイに掲載されている村上隆のテキストめちゃくちゃおもしろい(読んでなかった)。村上隆はオタクだけど、椹木野衣はサブカルおじさんなんだよな。村上はオタクの表象を自虐的に日本のプレゼンテーションとするのが卓越しているけど、椹木は外からの視点が無く、たんに内向的になってしまったからつまらないんだな。
村上のスーパーフラットは、いくつかの重要な作品が織り成す星座で、作品を並べてみたときに浮き上がってくるものがある。時間みたいなのがすっとばされて結合するのは、それが村上の視座から見えている星座だからだ。椹木が『拡張する...』の論考で、冒頭4ページにわたり作品の話もせずに敗戦とか時代とかそういう話を書き(しかもそれが驚くほど不勉強なのだ)、時系列的な流れを想定する時点で、編集意図としてスーパーフラットを模倣しつつ本質的なものを拾えていないことがわかる。いや全集という編年体的な書物だから制約もあって...という話であれば、最初からスーパーフラットなんて目を向けないほうがよい。
リトルボーイの図録みてたら、やっぱりパクリといっていいくらいそのまんまだな。"Little Boy The Arts of Japan's Exploding Subculture" で、副題までパクっているが、編集の企図としてこのリトルボーイ展およびその図録への参照があるということわりはない。リトルボーイの図録のほうが芯がとおっている。編年体ではないことはリトルボーイ展にとって重要に見えるが、それはスーパーフラットというコンセプトにとって時系列的な発展みたいな把握をしないからだけど、椹木の『拡張する...』ではびっくりするくらい凡庸な時期での区切りを導入している。時期で区切ってサイクル一周してもとに戻る、みたいなのが「悪い場所」だからそうなんだけど、いざキュレーションさせてみるとこんなに凡庸かってなる。
マノヴィッチがコンピュータ文化のなかに反モンタージュ的な傾向を読もうとするの動機としてはわかるんだけど、gnck が論じているような作品って積極的にモンタージュ的だし(コンピュータ文化のなかにもモンタージュ的傾向がある)、コンピュータ文化起源ではなさそうな映画にも反モンタージュ的な作品はあるし、気持ちはわかるけど恣意的
「どうして「自警団」が、震災直後に各地で迅速に結成されたのか」を不思議に思う人は、大日向純夫『警察の社会史』(岩波新書、1993年)を読もう。日比谷焼き討ちから米騒動を経て、治安体制を下支えした「民衆の警察化」を活写。入手容易ですよ https://amzn.to/3PQSec8
同じ著者の『近代日本の警察と地域社会』(筑摩書房、2000年)では、第2部「第2部 「大正デモクラシー」下の警察と地域社会」で詳述されている。この本、古書でバカ高いので、ちくま学芸文庫で再刊してはいかがでしょうか?(ご提案)https://chikumashobo.co.jp/product/9784480861139/
『警察の社会史』を読んだ時、国家権力の側からの米騒動の教訓化として、消防組、青年団、在郷軍人会との関係強化を通じた警察による地域の再編という動きと、「国防婦人会」結成にあたっての「とある財界人」の危機意識が重なるなと思ったよ。https://twitter.com/hayakawa2600/status/1070829642548834304