pleroma.tenjuu.net

tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

永山が引っ越しを繰り返し一つの場所に居着かないことは、場所から主体が疎外されている、それによってあらゆる場所は場所の固有性を欠いたものとしての「風景」として立ち現れる。けど、外からカメラをもった人間がきて短時間だけ滞在してその場所を見る「撮影」という行為が、典型的にそのような疎外を生みだす行為である。自己を疎外するものとしての「風景」が、撮影によって立ち現れるものなのか、永山の居着かなさによって現れるものなのか、映画からは区別をつけることができない。
みたいなことを思った。

『略称・連続射殺魔』は、連続ピストル射殺魔の永山則夫が訪れた土地を辿りながら撮影することを通じて、いまや日本全体が「総東京化」して均質な風景に覆われていると告発した、のちの郊外論の先駆けと言い得るフィルムです。そこでは、各地の風景をカメラで切り取って編集し、80分ほどの時間に圧縮するという操作が行なわれています。要するに、風景=ショットをヘテロトピックに混在させる映画の方法と、ヘテロトピックな風景として語られる郊外的なイメージを同期させているわけですが、その場合、撮影対象となった場所自体に混在性が備わっているのではなく、映画というメディア自体の条件が混在性の印象をつくりあげているのではないかという疑問が生じますよね。

https://www.10plus1.jp/monthly/2017/08/issue-03.php

風景論以降、前回ちゃんと見れなかったのでもう一回見に来た

BT 自然科学系の研究者でも過去の科学の古典を吟味して楽しむというタイプの人はいないわけではないし、ニュートンの著作の注釈をしたような人もいる。
また、分野の歴史をまとめておきたいと一念発起して史料を整備してくれる人もいるのだが、確かに多数派ではない。
つまりは科学史に興味を持つ自然科学者はいるのだが、そうした人は主に以下の二種類とみなされる傾向がある。
一つは、己の科学の研究業績はそこまでではないと感じているが、広い視野があったり、教育に関心のある人。
もう一つは逆に分野の創始者のような人。こういう人は過去に同じことをした人の著作を読みたがる。たとえばニュートンなど。そして過去のものから直接ではないにせよ間接的なインスピレーションを得たりする。
大半がその両者の中間で、直近の3-5年くらいを追いかけることで精一杯になる。それで過去の科学に目が向きづらいし。そして、科学者が増え、論文量が増え、情報量爆発と言われる時代になってからはこの種類の人が非常に多くなっているかもしれない。

自然科学系の人と話をしていて「何十年も前に書かれたものを読むなんて意味がわからない」と言われたことがある。研究は日々更新されていて、そんな昔のものに何の価値があるのか、という感じだった。そういう視点でみると、古典を読む研究者というのは、いかにも権威主義者という感じがするのかも。

人文社会科学はそこまで直線的に発展するものでもなくて、古いものを読むことで新しい発見があることは多い。何十年の前の著作でも「ここに書かれていることで、いま起きている現象、だいたい説明できるじゃないか」と思うことは少なくない。

24色のペン:元慰安婦碑の撤去を巡る「公共美術」論争=堀山明子(外信部) - 毎日新聞ニュース
https://mainichi.jp/articles/20230909/k00/00m/030/256000c

ダリオ・ガンボーニの「画家の誕生」は読んでおいたほうが良さそうだ

数年前にステーションギャラリーでやってたディスカバージャパンの図録は買っておけばよかった...

風景論以降 感想つづき

清野賀子の写真は、人の居ない、一見して匿名的な風景写真に見えるが、崟の作品と並ぶことで見え方が変わると思う。作家のいう"「通路」のようなものが開かれ、その先にあるものは見る人が決める"写真は、どこにでもある光景だからこそ、見る人の記憶の依代となるような写真であって、細部のない抽象的なイメージ画像ではない。

第三章は中平卓馬のProvoke時代の写真から始まるが、崟の次に見せられると、あまりに芸術的すぎる。プリントは美しかった。今回は政治的な文脈がはっきり出されたなかに展示されているが、イメージだけでは美的に消費されておかしくない。本人が自己批判するのもわかる。ほんとうにほんとうに美しかったけれど。

<略称・連続射殺魔>を見始めたら、おもしろくて86分通して見てしまった。映画的にも優れていて、常に緊張感があって退屈しない。永山則夫の生涯と同時代の社会構造とその関わりとが映像によって語られていた。あと60年代の日本の建物や習慣や服装など自体が(わたしが古い映画を見慣れていないだけなのだけど…)興味深かった。

東京都写真美術館「風景論以後」展

この展示の基礎となる風景論は、批評家の松田政男に代表される、都市化し均質化した日本の風景は国家と資本による権力そのものだとする議論。

展覧会は現代の笹岡啓子から始まり60年代の起点(大島・若松・足立)まで遡って再びもどる円環構造。キュレーションは写美の田坂博子氏。

わたしが充分理解できているかは心許ないのですが、意欲的な展示だと思いました。
とくに第二章が面白かった。
今井祝雄の映像作品は、横断歩道で信号が青になるのを待っているだけの日常的な記録映像なのだが、信号待ちというのが制度に従う行為あり、映像を見ながら待機の時間を過ごすことで、その制度が展示室に持ち込まれ炙り出されるところが面白い。
崟利子の伊丹シリーズは、まさに風景論以降の風景、どこにでもある風景に見えるが、生活拠点という作家の実生活によって選ばれた場所であって、そこが先行世代と分かれるポイントだと思う。どこにでもある場所は、自分が居る限り特定の場所である。

ふつうに生活しているぶんには、他人と同じ世界に住んでいて、同じものを見ているという確信は崩れることがない。たぶん、それを分断してきたものこそがメディアで、写真を見ることによって共同的な感覚が打ち破られてきた。あるいは、新聞や書物を通じて形成される「日本」という統合性を通じて分断が生じる。メディア上の経験は直接的な経験と異なって、共同体を分割して再統合する。

『身体的なレベルでの「知覚」が共有される』のはどういうときか考えてみたんだけど、言語の聞き取りとかは明らかにそういう面があるといえるかな

例えば江戸から明治にかけて存在した錦絵の作業集団とかを考えてもいいし、現代のソフトウェア生産集団を想定してもいい。一定の規準を見たすようなアウトプットを出すために必要なスキルセットが集団的になんとなく共有される。

アウトプットを評価するクライテリアは、なんとなく技能集団内で共有されている。この共有の仕方は、たとえば現代のソフトウェア生産集団だと、ブログや書物を通じての知識の伝達・共有・批判などで共有される(OSSのコードの共有などもなくはないが、その場合でもデザパタのような抽象化がおこなわれなければあまり集団的共有にはなりにくい)。集団的なクライテリアの形成は、錦絵制作集団であれば、他の絵師の出した絵などがだいたい技能者集団で知られているわけで、「芳年の月百姿みたいなのを作りたい」といえばだいたいの評価が共有されている。つまり、アウトプットされたモノとそれを評価するためのクライテリアが、技能者集団で共有されているようにおもわれ、それに身体的なレベルでの「知覚」が共有されるわけではない。

こういう使い方をする企業が出てくるわけなんだけど、デジ庁自覚してないでしょ。
みてる:当社の評価ツールWAIVが、ウェブアクセシビリティ導入ガイドブックに掲載されました|生活者視点のデザインコンサルティングパートナーU'eyesDesign
https://www.ueyesdesign.co.jp/news/20230707_waiv.html

「記者よ、我々読書子に多くの名著を紹介あれよ。我々は選択に苦るしむ、何故ならば広告文に迷ふて取りよせ内容を読んであまりの価値のないのに涙を出さずに居られないよ」(『読書の友』二巻八号)

明治期、新聞社の読書会の機関誌への、地方の読書過疎地域からの投稿、笑ってしまったけど涙を出さずに居られないよ。

均一化した風景がなんでもないものとして目に映る、それは権力の作用によるものだという風景論、新聞や雑誌、書籍販売ネットワークによって国内の言語が均一化していくことと無関係ではありえない。

下層社会に生まれ育った一人の大衆が<流浪>という存在態においてしか自らの階級形成をとげざるをえなかった時、したがって私たちが永山則夫の足跡を線でつなぐことによってもう一つの日本列島を幻視しようと試みたとき、意外というべきか、線分の両端にあるところの点として、風景と呼ぶほかはない共通の因子をも発見することとなったのである。そしてこれは、この日本列島において、首都も辺境も、中央も地方も、都市も田舎も、一連の巨大都市としての劃一化されつつある途上に出現する、語の真の意味での均一な風景であった。私たちスタッフ6人は、1969年の後半、文字通り、風景のみを撮りまくった。撮っては喋り、喋ってはラッシュを見、そして再び風景を撮った。作家と観客と批評家の回路が私たちの内部にできあがり、モーターが唸り、私たちが確かに私たちのまぼろしの日本地図をこの列島の上にあぶり出した時、映画が完成した。それは一種異様なる<風景映画>であった。(松田政男)

https://pop1280.hatenablog.com/entry/20060715/1153053357

ベルグソンをぜんぜん通ってきてなくて一冊も読んでないんだけど、メディアは身体の拡張みたいなことを言っているのか

未だネット上に存在しない日本美術史について|ちさぎ
https://note.com/bijutsushitan/n/nfb0b857ac85b

武蔵美の図書館は研究者少ないからだろうけど蔵書かなり駄目だな...

»