「中華民族の感情を損なう」服装を禁止、中国が法改正案 - BBCニュース
https://www.bbc.com/japanese/66748434
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純粋な時系列タイムラインではない、いわゆる「おすすめ」がいいなとおもうのは、投稿が一定の時間差でも滞留していることで、純粋時系列タイムラインのみだと断片化した話題が流れてきたときに遡る必要があっても掴めなかったりする。
XユーザーのDaiyuu Nobori (登 大遊)さん: 「情報公開法を用いて「天皇陛下の御使用になられているパソコンのレジストリファイル」を行政文書として開示請求したら、宮内庁から電話がかかってきて、「天皇陛下は毛筆にて業務をされており、公務ではパソコンを使用されていません。」と言われた。」 / X : 👀
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https://twitter.com/dnobori/status/159201224518942720
@gon_gitsune 家族の崩壊はしていないです。眞人・夏子・勝一で家族を形成することが、予定調和として描かれた(つまり冒頭に危機と克服が予告される)というのは、宮崎駿のこれまでの物語文法を踏襲しています。危機は一時的なもので最終的には大団円で終わる。「風立ちぬ」と「風の谷のナウシカ」(コミック)を除けばだいたいこのパターンで作られていますが、本作は、一見大団円でおわりつつ、まったく解決されず宙吊りのままにされている諸問題が残るような仕掛けになっているとおもいます。自分の理解では、「君たちはどう生きるか」というタイトルの利用は、鑑賞者にそのような未消化な残余部分を生煮えのまま手渡しているとおもっています。
自分の記事は、解決されなかった問題から、自分の関心にしたがって映画の予定調和性を見ていったときの解釈で、物語内整合性はそんなに考えていなですね。作品そのものが、寓意的表現とドラマ的な作りのパッチワークでもあり、一つの整合的な解釈がみつかるような作りではないともおもっており、表現の(おそらく)意図的な曖昧さとパッチワークの縫合箇所からはいくつかの解釈が成立するようになっているだろうとおもいます。
自分の記事は、解決されなかった問題から、自分の関心にしたがって映画の予定調和性を見ていったときの解釈で、物語内整合性はそんなに考えていなですね。作品そのものが、寓意的表現とドラマ的な作りのパッチワークでもあり、一つの整合的な解釈がみつかるような作りではないともおもっており、表現の(おそらく)意図的な曖昧さとパッチワークの縫合箇所からはいくつかの解釈が成立するようになっているだろうとおもいます。
最新の投稿がこれで、赤塚先生が侮辱されていて許せん。美術館館長は実務のトップなのはあきらかなのに「赤塚祐二館長なる人物」とか失礼すぎる。
https://www.facebook.com/yoshiki.fukasawa.3/posts/pfbid02pwvVnP4juNaXAMZxKSpUGCGWTAFDjwgXYQo3ip8LoZPP8bNfKPahYkh83PcRTnTql
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最初に流れてきたというのはこれ。中村とうようコレクションが武蔵美で死蔵されている、シンポジウムを開催したいとおねがいしたがぜんぜん相手にされなかったから署名をおねがいする、という投稿。これが「すでに予算の見込みがあるのに開催してくれない」というのが完全なウソで、これを取材先に確認なしで批判的な記事を出している。
https://www.facebook.com/yoshiki.fukasawa.3/posts/pfbid0xzgsMohfBxRuAhqkzr8VPU9AsLUn9FFEEbxrhM23rwEUycMJDt8eprm3LWd8qCxNl
https://www.facebook.com/yoshiki.fukasawa.3/posts/pfbid0xzgsMohfBxRuAhqkzr8VPU9AsLUn9FFEEbxrhM23rwEUycMJDt8eprm3LWd8qCxNl
最初に流れてきたときに「おかしくないか」とおもったけど、約束していた取材記事の事前確認を信用できなくなったからやめましたとか、「補助金がおりることになった」という嘘を記事に書くとか、それを早とちりでしたすみませんで済ますとか、どうみても悪質なゴロで、こんなのにからまれている武蔵美図書館の担当者はかわいそうだな。
https://www.facebook.com/yoshiki.fukasawa.3/posts/pfbid02usqPxxxiNtn7GDnsJ5Y7i3CwD97RZ4sbYe2xUpyAdLqArU2rnoj637aDkeB6W3Uel
https://www.facebook.com/yoshiki.fukasawa.3/posts/pfbid02usqPxxxiNtn7GDnsJ5Y7i3CwD97RZ4sbYe2xUpyAdLqArU2rnoj637aDkeB6W3Uel
文や言葉を紡ぐときに、ある言葉が浮いているように感じられたり調子外れに見えたりすることから、言葉を調整しなおす。そういうものが文体を構成しているんだとおもうけど、それはSNSでのつぶやきにもあるし、主題の選択にもあらわれる。
布施琳太郎氏はどうみてもアートが特権的なものだと信じているんだけど、大衆に対して芸術家がいわば指導的な責任を持つみたいなモデルで語っている。というかこの鑑賞者という無名の存在なしにはアートというものが成り立たない、という理屈になっているから無名の鑑賞者が大事という話であって、無名の鑑賞者とアートの維持は一体的なシステムとして機能している。むしろこういう素朴な心性こそが隠蔽を機能させる。大衆こそが「開かれたものとしてのアート」の存在根拠になっているわけだけど、そろそろそういうのやめたほうがいい時期なんだろうとおもう。
これは言っては悪いがジャニーズとジャニーズファンの関係に近いものを感じる。ジャニーズの件はファンに対する説明責任なんてはっきり言えばどうでもよくて、被害者への暴力とその隠蔽が問題になっている。
「大切なものとして思い至ったのは、自分の活動を追いかけてくれる鑑賞者たちだった。それは顔も名前もない人々である。」というのはかなり素朴な述懐なのだろうけど、これは名もなき大衆にたいしてアートが開かれているというだけのことで、この大衆を無垢な鑑賞者に仕立てあげるのは完全にやばい操作で、それはジャニヲタが「被害当事者の会がファンを傷付けている」とか言っているのを見てみればわかりすぎるほどわかる。
https://rintarofuse.com/audience.html
「大切なものとして思い至ったのは、自分の活動を追いかけてくれる鑑賞者たちだった。それは顔も名前もない人々である。」というのはかなり素朴な述懐なのだろうけど、これは名もなき大衆にたいしてアートが開かれているというだけのことで、この大衆を無垢な鑑賞者に仕立てあげるのは完全にやばい操作で、それはジャニヲタが「被害当事者の会がファンを傷付けている」とか言っているのを見てみればわかりすぎるほどわかる。
https://rintarofuse.com/audience.html
しばらく下書きのまま放置されていたけど、「君たちはどう生きるか」の感想を書きました
https://blog.tenjuu.net/2023/09/07/君たちはどう生きるか
https://blog.tenjuu.net/2023/09/07/君たちはどう生きるか
例えば江戸から明治にかけて存在した錦絵の作業集団とかを考えてもいいし、現代のソフトウェア生産集団を想定してもいい。一定の規準を見たすようなアウトプットを出すために必要なスキルセットが集団的になんとなく共有される。
アウトプットを評価するクライテリアは、なんとなく技能集団内で共有されている。この共有の仕方は、たとえば現代のソフトウェア生産集団だと、ブログや書物を通じての知識の伝達・共有・批判などで共有される(OSSのコードの共有などもなくはないが、その場合でもデザパタのような抽象化がおこなわれなければあまり集団的共有にはなりにくい)。集団的なクライテリアの形成は、錦絵制作集団であれば、他の絵師の出した絵などがだいたい技能者集団で知られているわけで、「芳年の月百姿みたいなのを作りたい」といえばだいたいの評価が共有されている。つまり、アウトプットされたモノとそれを評価するためのクライテリアが、技能者集団で共有されているようにおもわれ、それに身体的なレベルでの「知覚」が共有されるわけではない。
アウトプットを評価するクライテリアは、なんとなく技能集団内で共有されている。この共有の仕方は、たとえば現代のソフトウェア生産集団だと、ブログや書物を通じての知識の伝達・共有・批判などで共有される(OSSのコードの共有などもなくはないが、その場合でもデザパタのような抽象化がおこなわれなければあまり集団的共有にはなりにくい)。集団的なクライテリアの形成は、錦絵制作集団であれば、他の絵師の出した絵などがだいたい技能者集団で知られているわけで、「芳年の月百姿みたいなのを作りたい」といえばだいたいの評価が共有されている。つまり、アウトプットされたモノとそれを評価するためのクライテリアが、技能者集団で共有されているようにおもわれ、それに身体的なレベルでの「知覚」が共有されるわけではない。
これ、文意の全体は理解できるが「知覚の共同体」というのはよくわからない。自分は労働の共同体とか作業の共同体とか呼んだほうがわかる。労働や作業には継承されるべきスキルが介在しているからだが。この労働や作業におけるスキルの継承のなかでのみ、ノーテーションの読解が可能になる。たぶん認知科学の状況論とかもそんな感じの議題だとおもうが。
ローマによる侵略行為があり、それにたいするサビニの復讐があったのだが、ローマ化したサビニ女性が身を呈して戦闘を止める。
ダヴィッドは、「家族を守る」ことは女性の「徳」であり、女性による家族愛を賞賛している。家族というものが侵略行為によって奪われたものであっても構わない。被侵略者による復讐は「家族」という和を乱すものとして描かれることになる。被侵略者は女性の徳=家族愛を通じて戦闘を放棄させられている。
そう見るとなかなかひどい絵だ。たぶんオリエンタリズム絵画まであと一歩。
ダヴィッドは、「家族を守る」ことは女性の「徳」であり、女性による家族愛を賞賛している。家族というものが侵略行為によって奪われたものであっても構わない。被侵略者による復讐は「家族」という和を乱すものとして描かれることになる。被侵略者は女性の徳=家族愛を通じて戦闘を放棄させられている。
そう見るとなかなかひどい絵だ。たぶんオリエンタリズム絵画まであと一歩。
このサビニ出身女性の仲裁によって、ローマによるサビニの植民地化が名実ともに決定的になるわけで、タティウスがそうとう萎えている一方でロムルスがなにかを誇示しているように見えるのは、そういうことですよね。
ちなみに、右側の全開はロムルスで女性はその妻ヘルシリア、左の全開がサビニの王タティウス。ヘルシリアはサビニの女性だが、サビニはローマによって蹂躙され、女性を攫った。サビニ男子たちは奪われた女性を取り返しにきたところだが、すでにローマで結婚して子もいた女性たちが戦を止めに入っている、という絵だった。