ところでこの世界に6進数しか知られていないとしたら、500円の1割引はおなじように6分割したうちの1を引けばいい。
500/6=83.3333...(83+1/3)なので 500 - 83.333... になりそうだけど、83.3333...がそもそも10進数の値である。この世界には6進数しかしられていないから、数字の0を使うとして6〜9は存在しない(「6等分」の概念はどうやって表現するのだろう...、0を使うかどうかは好みだけど)。
6進数世界で、500の一割はなんになるか?がぱっとわからない。500を5分割したら100なのは自明だが、500を2で割ると、250ではなく230である。500の一割引は50を引けばよく、410になる。
この計算、まじでわからなかったんだけど、10進数という装置がかなり内面化されている。1が6個あれば10(1x6=10)と表記される世界だから、5が6個で50(5x6=50)で、50x6=500だし、500/6=50になる。いやここで6がでてくるのはどうなんだって感じだけど...。6は10と表記されるので、表記を直すと5x10=500、500/10=50となって、10進数と見わけがつかない。ただ、500から50を引くと6進数だと410になる。この世界では6〜9の数字は知られていないから、「1割引とは6分割して1つ引く」を言いなおせば、「1割引は10分割して1つ引く」ことになる。6進数も存在していなくて10進数である。我々が10進数だとおもっているものは、この世界の住人から見ると14進数になるとおもう(合ってる?)。
李氏さんが話したいこととはたぶんズレているんですが、マノヴィッチがニューメディアの言語で「じゅうぶんに解像度が高ければデジタルで撮影された写真は写真だ」みたいな議論をしている箇所があり、友人の写真家の顔をおもいだして、彼はもともとはフィルムがメインだったのですが、マノヴィッチの発言に怒りそうだなーと思いました。アナログ写真とデジタル写真は当然知覚上の差がある、というのはフィルム派の信念で、これピュアオーディオ教と近いものを感じるのですね。
アナログメディアの登場に、「(音|光)を知覚する」信念を助長するものがあったのか、デジタルメディアはそれを壊しつつあるのか、そういうことをちょっと考えていました(あんまり関係なさそうな話すみません)。
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そんな甘ったるいことを言っている場合じゃないんだと思う。思うけれども、それでもやはりどこかで、「知ってもらわなくてもいいしわかってもらう必要もない、そもそも自分に〈知る〉権利があると思っているらしいところからして気に食わない、そんなのは全部どうでも良いから、奪っていった人権を、生存の権利を、黙ってとっとと返せ」と言いたいよね、言えたら良いのにね、とも思う。
私たちが知るべきなのは、あるいは知らしめるべきなのは、複雑で多様なマイノリティの現実なのだろうか。
例えば私たちは自分と接点のない職業についている人々の複雑で多様な現実なんて一切知らないけれども(例えば株のトレーダーとかどういう経緯で誰がなるんだろう?)、その人たちが存在していることはわかるし、人権があることも普通は了承している。
なぜ特定のマイノリティについてだけ、その「現実」を知らなければ存在を了承することも人権があると認めることもできない、という話になるのだろう?
なぜ特定の人々については、「差別解消」の前に、「理解増進」が必要なのだろう?
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思うんだけれども。ここからただの愚痴なんですけど。
最初に提示された二点(「トランスは現在に存在し、その人権は守られるべき」)は、「トランスの複雑で多様な現実を知」らないと、共有できないのだろうか、と私はどうしても思ってしまう。
「現実」を知ることが先にあるべきなのだろうか。それが現実的に有効な方法であるのだろうというのは了解するのだけれど、でもある特定の人々が存在していますよということ、その人たちには当然人権がありますよということを、その人たちの「複雑で多様な現実」を知らなければ、私たちは了承できないんだろうか。
本当に?
ある特定の人々に関する「知識と表象が不足」していたら、その集団に属する人を「ひとりの人間として受け止める能力さえ損なわれ」てしまうのだろうか?
いや、損なわれているように見える人が多いのは事実なのですが、それって「知識と表象の不足」で免罪されるものなのだろうか?
私たちは、自分がその「複雑で多様な」生についてあらかじめある程度知識を持っている相手でなければ、その相手を人権の主体と認めることができないんだろうか?
それって絶望的じゃない?
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SNSもそうだし実はブログ時代も私にとって楽しかったのは、解説でも出来上がった分析でもなく、ましてや広報でも宣言でもなく、思考途中の「でもこれってああいう話があるじゃない?」「こう考えてみたけど違うかも?」というところを共有して全然違う分野やアカデミア外の専門家(アクティビストももちろんだけど、そうじゃなくても何らかのコミュニティ歴やファン歴の長い人とか)の意見を聞けたりとか、他の人が同じように思考を共有するのを目にして考えこんだりとか、そういう部分だったわけだけれど、結局のところそれってある程度の期間にわたってメンバーの固定されたクローズドな場(何なら対面)でないと難しいというのが、ここ20年くらい世界中でいんたーねっつをやってみた結果です、ということになるんでしょうかね。そうじゃないといいなあ。
「芸術と自然の間に並行関係があるとすれば、それはどちらも生を表明するという事実にあるのですが、芸術家が競争相手とするのは自然ではなく、その創造者––創造者の像としての––です。それゆえ、芸術家は出来上がった自然の模倣者ではなく、そのプロセスを模倣することを任務としています。」(「芸術の意味」ジョセフ・アルバース)
https://tsugunavi.funaisoken.co.jp/columns/42594/
The giant Great Buddha in Ibaraki Prefecture’s got mad skills.
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