核融合の理論それ自体は善い利用も悪い利用もできるだろうしそういう意味で中立かもしれないけど、その成り立ちを考えると中立な存在として産まれ育まれてきたわけではないし、そういう意味では中立な存在ではない (少なくとも、なかった) ということもできる
批評というのも、それそのものは純粋にコンテンツに対する考察たりうるかもしれないけど、それを読み手に向けて放流した時点で社会の状況や発表者の名前という文脈が紐付いてしまうことは免れないし、ゆえに (意図に反して) 批判として認められてしまうことはありうる
技術そのものは (発生や利用の後押しなどの社会的文脈から切り離して) あくまでニュートラルに見つめることはできるんだけど、現実世界にそれを持ち込む以上は文脈から切り離された存在であることは実用上ありえなくて、ゆえに社会的な観点からの非難を免れない場合が多い
批判と批評は違う、みたいなのよく聞くけど、自分は批判のニュアンスが根っこにあるべきだとおもっています。ただの論考なんじゃなくて、批判的な論考を公表する自由がある。
批判と批評は違うっていう物言いは注意しないとあぶないし、敵対的な見解は「批評」ではないというレトリックがまかりとおるほうが嫌なことだとおもう。
批判と批評は違うっていう物言いは注意しないとあぶないし、敵対的な見解は「批評」ではないというレトリックがまかりとおるほうが嫌なことだとおもう。
そういえば今日タイムラインで批評が必要かどうかみたいな話題が流れていた気がするけど、批評が作品の善し悪しを論じるものだとかなんとか以前に、趣味の開示をする自由なんてふつうにあるのでは?という感想。
というか、市民社会って批評によって成立するので、それが作家でもなんでもいいけど権威的な存在によって批評が排除されるというほうがよっぽど問題ある。
というか、市民社会って批評によって成立するので、それが作家でもなんでもいいけど権威的な存在によって批評が排除されるというほうがよっぽど問題ある。
フィルム写真とデジタル写真の違いで、撮影時に即時にプレビューされるかどうかは大きいのではないだろうか。フィルム写真だと撮影から現像までに時間があるけど、デジタル写真の場合はデータを即時に見る。
これとおなじようなことが、印刷物とマイクロブログにもあるんじゃないかということを考えている。そこが並ぶのどうなのっていうのはいったん置いておくけど、印刷物は原稿があり製版されて出版される。原稿と印刷物のあいだには編集過程があって、写真の現像とおなじようにその撮影時点との時間的な隔たりをつくりだす。マイクロブログは書いたものがそのまま投稿される、とみんなおもっていて、編集とか現像のような時間的隔たりを作りだす過程がない。
これとおなじようなことが、印刷物とマイクロブログにもあるんじゃないかということを考えている。そこが並ぶのどうなのっていうのはいったん置いておくけど、印刷物は原稿があり製版されて出版される。原稿と印刷物のあいだには編集過程があって、写真の現像とおなじようにその撮影時点との時間的な隔たりをつくりだす。マイクロブログは書いたものがそのまま投稿される、とみんなおもっていて、編集とか現像のような時間的隔たりを作りだす過程がない。