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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

無職による労働運動

温泉マーク、ぬるっと1年間無職がつづいたわけなのだが、これで自分がニートであり続ける才能がある側の存在であることを確信した

@on1000mark ツイッターが、というのもあるんですが、「みんなが(多くの人が)」大きなものとして理解してしまったというほうが問題あるなと思っています

労働組合でやっていくしかないという...

@on1000mark 住空間や職場だと妥協しまくりで、それはやむを得ないことがたくさんあると思うのですが、SNSは言うほど必要性があるものでもないと思うのですよね。必要性が過剰に宣伝されていて、それが「公共性」みたいな言い方にまでなってしまっているとおもうのですが、やっぱり自分はこれは「無くても済む」ものだと思っているから、公共性があるとも思わないのです。

これとおなじ話をしている
https://pleroma.tenjuu.net/notice/AXynIguVJ5qYgjRrrU

イーロン・マスクという人間が倫理的に問題あるとかなんじゃなくて、ユーザーのアカウントやコンテンツが彼の資産そのものなのだから、そこでなにかやればやるほど彼が喜ぶっていうことがとにかく屈辱

@on1000mark 仮に公共性というものがツイッター上にあったとしても、最終的には権力によって一発で退場させられるものでしかなかったっていうことだとおもいます。それはだから、管理者・権力者が善良であるという前提においてのみ成立するようなものでしかなかったというか。

ActivityPub の世界にあっては、コンテンツは誰のものでもない場所に置かれている。コンテンツは常に開かれていて、だれもそれを独占できない。それがすごく良いとおもっている。

Twitterが公共財なわけがないし,ジャックドーシーの時代から私企業が運営するサービスだったよね。なんか変な「公共性」みたいなの言い出す人はいつでもいたけれど。なぜMastodonができ,ActivityPubがW3C標準になったか知ってる? ジャックドーシーのゴミ運営が原因だよ?

公共性というか、誰のものでもない空間になるかどうかなんだよな。

自分のこのサーバーは自分が管理しているからコンテンツの削除も編集も自分の権限にあるけど、他のサーバーにとどいた自分のメッセージはそうではない。あるサーバーは自分のサーバーをブロックしているかもしれないけど、それによって誰かの自由がなくなるわけではないし、コンテンツが閉じたものになるわけでもない。

良くわからないけど快適な状態が維持されてしまうから、技術者が権力を持ってしまう

べつに税金と行政でどうにかするだけが道ではなくて、それこそ自由ソフトウェアみたいなのもひとつの手なわけですよね (当然相応のコストはかかるけど……)

本当に公共財とせざるを得ないようなもの、たとえば電波割り当てとか通信回線とか、そういうものってやっぱり法的にちゃんとそういう扱いを受けてるんですよ。 Twitter とかを同列に扱うのはちょっと違う。

https://fedibird.com/@zpitschi/110814633440767433

これは逆の言い方もできて、市民が「営利組織による私有地であることを理性では了解しているにも拘らず、そのリスクを見て見ぬふりして無責任に公共財扱いしている」という面もあるのではないですかね。
むしろ私からすると「公共財というラベルを付けておけばコストも労力も全く負担なく言いたい放題できる」という悪徳が蔓延しているように見えている。

インターネット上の私有地と公的空間

何つーか、最近、特にblueskyを始めて痛感したのは、「皆んな、立ち位置が消費者(お客様)なんだな」ということなんだよな。視点がお客様視点なのよ。

例えば、Twitterに対して、私たちは(お金は払ってなくても)確かにユーザーというか、ある種のコンシューマーであることは確かなんだけど(日本のTVの民放みたいな感じかな)、でも私はそれだけではないと思っていて。

でも、私たちは消費者(お客様)であると同時に、参加者だし、何なら市民はそれがもし私企業であっても巨大な情報インフラに対して、何て言葉で言えば良いのかな、ある種の発言権を当然持っている存在だと思うんだけど、違うのかな。

アレは公共財だよ。私たちのものだよ。公共財をただの金持ちの一個人が勝手に何しても良いわけがないじゃん。私たちが国に対して、抗議するのと同じように、当然、抗議しなければならない相手だとしか私には思えないんだけど、違うのかなぁ。

どんなに酷い為政者が国を挙げて私物化してデタラメ放題にしていたとしても、それ、その為政者が悪いんであって、その国に残って税金払って抗議する人が非難されるべき話ではないよね?出て行ける人は出ていく自由はあるけど、残る人が「依存してるんだから抗議するのはおかしい」とか言わないでしょ?

どうもよくわからん。

その代表格が林房雄の『大東亜戦争肯定論』(1963-65年ごろ)。この本が売れるとともに、「あの戦争はアジアの解放のためだった」というものから「きれいごとを言っても、しょせんは日本帝国とアメリカ帝国と大英帝国の戦争にすぎない」というものまで、様々に戦争の意味を正義から切り離して考える思想が現れる。

1980年代、90年代には日本帝国の戦争を肯定する議論は下火になったのだが(この時代に育ったのがいまのネット世代である)、1990年代からは肯定論が再び興隆し始める。ここでは、アメリカ(やその他の勢力)の陰謀などへの言及も増えていった。

この流れの延長上に2000年代に登場するのが「新しい歴史教科書をつくる会」であり、その歴史観(それはほぼ大東亜戦争肯定論の焼き直しである)を政策にまで引き上げたのが2012年以降の安倍政権である。

太平洋戦争の意味について何かを言いたいとき、我々がまず考えなくてはいけないのは、自分のアイデアがこうした右派世論のどれかにシンクロしていないか、ということだ。

それらは車輪どころではない、邪悪の再発明だ。そこに落ちこまないことを考えておかなくてはならない。

改めてざっと確認する。間違いは指摘してほしい。

日本帝国が戦争への道を突き進んでいたころ、日本は神の国であるというような完全に行っちゃった人たち(軍の中心部などにそこそこいた)を除くと、だいたいの理屈は「西洋は過去100年にわたってアジアを侵略してきた。日本はそれに対抗する。そのためにはアジアの物質的・人的資源を日本の元に統一する必要がある」というあたりにまとまってた。このへんの話をした人には、総力戦構想の右派(石原莞爾あたり)から、西洋文明は思想的に行き詰っていると考える左派(京都学派など)までいろいろいた。

戦争が終わると、「日本帝国は悪であり、正義の連合国に負けた」という考えが一般的にあんって、こういう人達は口をつぐむのだけど、1950年代ごろから「やはりあの頃の理屈も捨てがたい」と考える人たちが世間に出てきはじめる。

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