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tenjuu99(天重誠二) | @tenjuu99@pleroma.tenjuu.net

読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など
いろいろ雑につぶやいていますが、最近は浮世絵について調べています

いま仮に twitter がなくなったらネトウヨたちはどこに行くことになるんだろう
ていうかトランプがやってるっぽい TruthSocial はどうなってるんだ

やっぱり建築史ちゃんと洗っておかないとだめだな〜

twitter 一気にはてブっぽさが増してきたな

バウハウスもめちゃくちゃざっくり言ってしまえばファサードの話はもういいやろ、建築内部の必然性からボリューム作ろうやって話だし、家具のデザインに注力していたのも一貫性ある。

ただ、モホイ=ナギみたいなグラフィックデザインの先祖がいて、メディアのデザインにおいても先駆的だったのがバウハウスという運動の性格を難しくしているのはそう。

デザインの対象領域を、建築空間内部(インテリア)、建築空間外部(ストリート)、メディアという領域におおざっはに分類するのは筋が悪くなさそうにおもえる

6月の気温ってこんなだったっけ...??

@BLUE_PANOPTICON まあ、作品外で意図の解説するくらいならレイジみたいにタイトルにしてくれとはなりますね。

今回のイメージ戦略は、一般に知られるネガティブなイメージと、ビジュアル自体の美しさに引き裂かれつつ意味が宙吊りされてしまう、というのが、個人的にはおもしろい戦略だなと思いました。

Rage Against The Machineの1stのジャケットが仏教の攻撃だと読むのかって言っている人いるけど、あれを読みまちがえる人はいない。バンド名(=アルバムタイトル)と写真を合わせて、焼身自殺した僧侶の姿が抵抗の象徴だというのは、見間違えようがない。ここには写真とキャプションの関係が成立している。

今回の場合、そもそもレインボーフラッグ自体が一つの象徴であり、それを燃やすという行為も、象徴への破壊として読むのはある程度一般的である。アルバムジャケットに採用するくらいだから、「レインボーフラッグを燃やす」ことを象徴化していることはわかる。ただ、この象徴化は、キャプションがないため意味が宙吊りされてしまう。

結果的には、本人の言明がキャプションの効果を持ったけど、そのように意味を収斂させていくことは意図していないとおもう。インタビューはあきらかに作品の外部だし。

Rúrí さん、知らなかったけど、アースワーク系の作家なんだな。虹をモチーフにした作品は2つあるっぽいけど、燃やしているやつは、誰も虹を掴むことができない、現象としての性質に関心があるということと、それが抱える文化的な意味の強さ。
https://ruri.is/

今回の件で、興味深くおもったことの一つは、イメージの意味の読み替えで、Rúrí さんの作品は現在の意味でのレインボーフラッグを意味していなかったとおもうけど、それを文脈を変えて別な意味を作りだしている。完全にネガティブな意味に読み替えているし、それを社会で流通する記号として利用している。

この意味の乖離に疑問がでて Rúrí さんの作品をざっとステートメントとか読んでみたけど、そうするとこちらでは、人間がいかにして自然とかかわっているか、虹という記号と虹という現象の関係が問われている。人間が虹を記号として把握する一方で、自然はそこから逃れる。

こういう記号と実在の乖離という関係において作られるメッセージが、環境活動家のアートをターゲットにした活動と構造的に似ているのではないかと感じる。それが、作品そのものの外部でおこなわれていることも含めて。

twitter、ほんとに終わってんな...
https://twitter.com/ElonMuskAOC/status/1668033649567215618

モネの絵のガラス面に絵の具(?)をつけることだったり、レインボーフラッグを燃やすことだったり、イメージにたいする破壊という行為の、いろいろな文脈差と社会のなかでの読解可能性について、繊細な論点がたくさんありそう。

上村松園のエッセイを読んでいたら、展覧会に出した絵の人物の顔を何者かに汚された事件のことが書かれていて「それなら絵を汚さずにわたしの顔にでも墨をぬって汚してくれればよい」と松園は怒っているのだけれど、本人を傷つけること以上の本質的な侮辱であると分かっているだろうなあ、犯人たちは。

河本真理さんの2020年の『美術史学/フェミニズム/ポストコロニアリズムのインターフェース』という論考に、以下のような記述がある。

「今日、とりわけ欧米のアカデミズムでは、フェミニズム/ポストコロニアリズムの視点に立つ美術史は重要な位置を占め、それを無視することはもはや不可能になった(もっとも、日本のアカデミズムの状況は、欧米のそれとは大きく異なる)。」

これについての脚注が「残念なことに、日本ではジェンダーの視点を美術史に導入することは容易ではなく、欧米のアカデミズムにおける影響力とは比べものにならない」とある。

まあそうですよね、としか言えないけど...。

図書館久しぶりにきたけどめちゃくちゃいいな

この記事、以下がもっとも興味深かった。

「合意は待つに値しない。(…)重要なのは、行動に移す者がいることだ。2006年、政治学者のエリカ・チェノウェスは、非暴力が暴力と同じくらい政権交代に効果的かどうかを確かめるべく試みた。彼女自身も驚いたことに、非暴力の戦略のほうがうまくいくということがわかった。人口のたった3.5%ほどの人たちが抵抗すれば非暴力的に政権を倒すことさえできるという(…)言い換えれば、変化を生み出すためにはすべての人が合意する必要はないということだ。ただ、一部の人が情熱的に賛同して寄付をし、選挙運動をし、デモに参加し、ケガや逮捕のリスクを取り、投獄や死の可能性を覚悟すればよいのだ」(『それを、真の名で呼ぶならば』レベッカ・ソルニット著、渡辺由佳里訳、岩波書店)

@on1000mark 期待してます!

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